楠木正成 私心なき史上最強の武将

連載・愛国者の肖像(3)
ジャーナリスト 石井康博

 楠木正成は江戸時代から「最強の武将」「理想の忠臣」として尊敬を集めてきた。一武将でありながら、その功績により明治天皇から正一位を追贈されている。
 楠木正成は永仁2年(1294)年に河内国赤坂(現大阪府千早赤阪村)で橘氏の後裔である豪族の楠木家に生まれ、観心寺で学問を、兵法は毛利時親に学んだ。正成は京の命で反逆した御家人の征伐に向かい、その都度成功したので、その名が知られていた。
 宋学(朱子学)を学び、天皇親政を目指した後醍醐天皇は、鎌倉幕府の倒幕を試みるが失敗(正中の変)。再び倒幕計画を練るが(元弘の乱)密告され、京都を脱出した。笠置山(現京都府相楽郡笠置町)に兵と共に籠城するが、援軍も少なく、圧倒的な幕府の軍の前に憂慮し、うたた寝している間に夢を見た。夢では、大きな常盤木の下の南向きに席が設けられ、二人の童子が現れて、暫くとどまるように勧めていた。夢から醒めた天皇が、「木の南」すなわち「楠」の名がつく武将はいないかと訊ねると、傍にいた僧が、楠木多聞兵衛正成という評判の高い武士がいると答えた。天皇は即座に勅使を送り、正成を呼び寄せた。「至上の栄誉」と感激し、笠置に参じた正成は天皇に、武力では幕府に劣るが計略を巡らせれば勝てるので、恐れる必要はないと話した。
 その後、笠置城は落城し、正成は赤坂城(下赤坂城)に戻り、幕府の大軍に対峙した。30万の軍に対して貧弱な赤坂城で奮戦し、塀を切り落としたり、大木・大石を投げ落としたり、熱湯を浴びせるなど奮戦した。だが多勢に無勢、密かに撤退するが、焼死体を残し、「正成は自害した」と敵を欺いた。
 後醍醐天皇は隠岐に流され、倒幕側の要人は処刑されてしまったが、楠木正成は再度決起し、周辺の豪族をも味方に引き入れ、河内、和泉一帯を支配下に治めた。知らせを聞いて、攻めてきた六波羅軍5千人に対して難波の地で、僅か300人で対峙し、橋を渡った所を伏せていた楠木軍2千が攻撃し、橋の桁を外して敵を落とすなどして撃破した。正成はその際に川に落ちた敵を許して、殺さずに助けた。彼らはその後感謝して正成に仕えるようになったという。
 正成は山奥の千早城に籠り周辺に砦を築き、3千人の守りで幕府の攻撃に備えた。楠木軍を殲滅しようと幕府軍が塁壁を登って攻めると、材木や大石を落とした。敵兵が梯子を使って城に登り始めると、油をそそがれた上に松明を投げたので、兵士と梯子は火だるまになって死傷者が続出した。食糧も尽きた幕府軍は戦意を喪失してしまう。
 その間、各地で反幕府の旗が上がり、千早城攻撃に向かった足利尊氏は幕府を裏切って六波羅探題を攻撃し、京都を制圧した。一方、新田義貞も挙兵し鎌倉を攻め、幕府は滅亡した。隠岐に流されていた後醍醐天皇は脱出して京に向かう。天皇が兵庫に留まっている時、正成は7千人を引き連れて参向した。「大儀、早速の功、偏(ひとえ)に汝が忠戦にあり」と天皇が声をかければ、正成は「是れ君の聖文、神武の德に依らずんば、微臣、争(いか)でか尺寸の謀を以て、強敵の囲みを出ず可く候はんや」と答え、京都へ還幸する天皇の前陣を守った。
 後醍醐天皇の親政となり(建武の新政)、正成はその功績により河内と和泉の守護になる。しかし、公家の失政が続き、また所領や恩賞に対する武家の不満がつのり、親政は長く続かなかった。鎌倉で北条時行の反乱を鎮圧した足利尊氏はついに後醍醐天皇に反旗を翻し、新田義貞の軍を破って入京した。正成は、今度は尊氏と戦うことになる。
 当初は劣勢に立っていた朝廷軍であったが、正成はここでも知略を発揮する。楯に鈎を付けて横に並べて垣を造り、それを二重三重に置いた。そして人も馬が強行突破しようともがいているところを矢で射かけたので、尊氏軍は多くの死者を出し、戦意も喪失、退却した。その後の戦いにも敗北した尊氏は、九州へ逃げた。
 尊氏を高く評価していた正成は、彼が九州に逃げても勢力を取り戻し京都へ戻ってくると考えていた。それ故、後醍醐天皇に尊氏と和睦することを進言した。それが天皇のため、国のために最良の道であると信じたからである。そこには私心のない正成の姿があった。だが、それは残念ながら聞き入れられなかった。九州の多くの武将を味方に引き入れた尊氏は再び京都に進軍した。
 元寇以来九州の武士は強く、まともに戦ったら勝てないことが分かっていた正成は、後醍醐天皇に比叡山に一旦引いて尊氏に都に入らせ、四方から挟み撃ちにする作戦を提言したが、戦を知らない公家から反対されてしまう。万事休す。それでも天皇に対する忠誠を曲げず、正成は死の道を選んだ。そして桜井の宿に11歳になる子の正行(まさつら)を呼び、涙で別れを告げた。正成は、自分が討ち死にして、天下が将軍の代になっても、楠木一族が命がけで天皇に忠誠を尽くすことが一番の孝行であるとの言葉を残した。
 新田義貞が2万5千、正成は700の兵で50万の足利尊氏軍を兵庫で迎え撃った。戦況に危機を感じて退却した義貞の軍と正成の連携が乱れ、湊川に陣を据えた楠木軍は孤立し、包囲されてしまった。死を覚悟していた正成は弟の正季と共に決死の突撃を繰り返したが、いよいよ残り73人になった時、正成と正季は覚悟して、「七生報国」の言葉を残し自刃、正成43歳であった。尊氏はあわれに思い、正成の首を丁重に妻と子が待つ河内まで送り届けたという。
 楠木正成は類まれな知略と武勇で史上最強の武将と言われるが、経済力もあり、人を見る力、先見の明もあったと評価されている。また天皇陛下に対する忠誠、私心がなく国に奉仕する姿は、古今東西を問わず日本人の心を打つものがある。国家的危機が日本に訪れている今こそ楠木正成の精神を大切にしたい。
(2022年11月10日付 793号)