大文字の送り火

連載・京都宗教散歩(11)
ジャーナリスト 竹谷文男

大文字の送り火、京都市北区・建勲神社から

  京都盆地を囲む山で送り火を焚く「五山の送り火」が8月16日夕刻、3年ぶりに全点火で行われた。東山連峰の一つ如意ヶ嶽の「大文字の送り火」が特に有名であるが、それ以外にも四つの山に漢字で、妙、法、そして左大文字の大、および舟や鳥居の形の送り火が、夜空に現われた。
 京都では、8月13日の盆の入りに先祖の霊を「お精霊(しょらい)さん」と呼んで招き、盆の明けの8月16日に五山の送り火とともに再びあの世へと送り帰す。祖霊たちの冥福と仏の加護を祈る盂蘭盆会の祭事が、日本の伝統的な祖先崇拝と一つになった神事ともいえる。市内から眺めることができるこの送り火は、夏の終わりを告げる京の風物詩だ。
 点火時刻は、最初に火が灯る大文字が午後8時と決まっている。この日、1時間前には夜空に雷光が走り、雨粒がぱらつき、そして真上で雷鳴が鳴り渡って激しい夕立となった。「大」の字を正面に近い位置で且つ少し高い位置で眺めようと京都市北区の建勲神社のある船岡山に登ったが、土砂降りの雨を避けるために拝殿の庇の下に入って待っていた。五山の送り火の時は不思議なことに、点火の直前まで激しく雨が降るが、点火に合わせるかのように降り止んで、何事もなかったかのように点火することが多い。
 この日も激しい夕立は点火の15分前に小降りになり、点火時刻の午後8時には止んでしまった。激しい雨のため点火は10分の遅れとなったが、その頃には霧が晴れ空気も澄んで町の灯りがくっきりと見えるようになった。東に流れて行った雨雲の中から時折、音も無く稲妻が光り、一瞬、琵琶湖の方角から逆光のシルエットで東山の稜線を描き出した。映し出された比叡山と如意ヶ嶽の稜線から、真っ暗な中でも大の字の方角を見当づけることができた。盆地に広がる京都の町も一瞬、昼間のように照らし出された。
 大の字の点火はまず、字の中央から全体に灯されるが、ほとんど同時に灯ったようだった。船岡山の中腹や建勲神社の階段、境内に集まっていた多くの観客からは一斉に歓声が上がった。

大の字の中心にある火床・金尾から見る京都市内、如意ヶ嶽から

 船岡山は標高約110メートル、比高45メートルの小山で、東南側には建勲神社が、西北側には公園があり、市内にありながらも緑豊かな自然が保たれている。聖徳太子の頃の文献には船岡山の名が出てくるが、もともとは有力な渡来氏族であり太子の盟友であった秦氏の根拠地だったためだ。1200年前の平安遷都では、風水思想に基づく龍気がみなぎる地形で、大地の気が溢れ出る「玄武」の小山であると占われた。現在でも建勲神社境内の船岡妙見社に、玄武大神が祀られている。
 遷都直後、船岡山は都の北の基点となり、朝廷の中枢である大極殿は船岡山の真南に建てられて、そこから朱雀大路が南へと伸びた。清少納言は枕草子で「岡は船岡・・・」と讃えるほど、京の人々にとっては清遊の地だった。最近では、送り火を静かに眺める絶好の地であると知られ始め、多くの在住の外国人も登って見にきていた。
 五山の火は約30分ほど続き、消え始めると人々は三々五々、山を下った。ほとんどの人が神社を後にした頃から、止んでいた雨は再び激しく降り始めた。まるで、お精霊さんを見送る間だけ晴れていたかのようだった。これも、五山の送り火が神事と言われるゆえんである。
 五山の送り火が始まった時期は諸説あって、最も早いものは平安初期に空海が始めたといい、あるいは室町中期に足利義政が、また江戸初期に近衛信尹(のぶただ)が始めたなどといわれている。送り火で精霊を送るという盆行事が一般的に広まったのは室町時代以降と考えられ、文献による最初の大文字の送り火の記載は江戸初期である。
 大文字山の大の字の字画が一点に集まる場所は「金尾」と呼ばれ、最大の火床が大谷石で十字の形に組まれている。合計75基据えられている火床には、松材の薪が井げた状に組み上げられる。松の薪は強い火力を出すように、毎年2月頃に切り出されて乾燥させ、割木にして使われる。「大」の字の第一画(一文字)の長さは80メートル、第二画(北の流れ)は160メートル、そして第三画(南の流れ)は120メートルである。
 当日は点火に先立ち大文字の金尾に近い位置にある弘法太師堂において灯明が灯され、浄土院住職によって般若心経が唱えられた。その後、灯明から火が移され、大松明による合図で一斉に各火床に点火されて、右上がりの雄渾な「大」の字が夜空に浮かび上がった。なお、「京都五山送り火」の五つの送り火はすべて京都市登録無形民俗文化財である。
(2022年9月10日付 791号)