広瀨武夫 海軍中佐─死を賭して国を守った「軍神」

連載・愛国者の肖像(1)
ジャーナリスト 石井康博

広瀨武夫

 日本の周辺に戦争の影が押し寄せようとしている今日、「平和ボケ」「お花畑」と揶揄される現在の日本。これで本当に国を守れるのか、疑問を感じるこの頃である。こういう時こそ「国を守る」という意識を再確認し、日本を守るために命を懸けた先人たちを思い起こしながら、今の日本に必要な「愛国の精神」を取り戻したい。
 戦前は「軍神」と呼ばれ、文部省唱歌の題材にもなるなど、国民的英雄だった広瀬武夫海軍中佐は慶応4年(1868)、豊後国竹田(現在の大分県竹田市)で生まれた。広瀬家は南北朝時代に南朝の天皇方に従い戦った肥後の菊地氏の子孫で、その輝かしい家系に恥じず、皇室に命を懸けて従うように教えられていた。豊後の岡藩士であった父の重武は二度投獄されるなどの憂き目にもあったが、勤皇の志士として活躍した人物である。
 父から大きい影響を受けて育った武夫は、父の性質を受け継ぎ、天皇陛下のため、そして国のために命を懸けるのが我が道と考えていた。明治22年(1889)に海軍兵学校を卒業後、軍艦「比叡」「海門」に乗艦し、明治24年には海軍少尉に任官した。その頃から実直で優しい性格が同僚、部下から好かれ、また寄留地の豪州では現地の人々が広瀬に大変好感を持ったという。
 明治27年(1894)に日清戦争が勃発。広瀬も連合艦隊とともに作戦行動に参加し、最初は輸送船での武器弾薬、食糧などの補給に従事、編成替えにより、第2遊撃隊の旗艦「扶桑」に乗り組み、旅順港の攻撃に参加した。
 そして広瀬は、日本にとって脅威となりつつあったロシアを知るために、独学でロシア語を勉強するようになる。明治30年(1897)にはそれが認められて広瀬は海外派遣の命を受け、ロシアに留学。その後、駐在武官としてロシアに4年5か月間滞在した。
 ペテルブルクに到着した広瀬は本格的にロシア語の勉強を始め、明治32年(1899)には黒海沿岸の巡視旅行にも出かけた。現在ウクライナで紛争の焦点ともなっている、クリミヤ半島のセバストポリ軍港や軍港と貿易港を兼ね、オデッサ(現ウクライナ領)を視察している。後にはポーランド、ドイツ、英国などの欧州への視察旅行に向かい、盟友の秋山真之と共に英国ポーツマスで戦艦「朝日」を見学するなど、世界一の海軍力を誇る英国海軍の視察もした。それもひとえに日本を強くし、守るためだったのである。
 広瀬の人となりはロシアでも受け入れられ、多くの友人を得た。その中でも子爵のコワレフスキー少将一家は特別な存在で、娘のアリアズナと恋仲になる。アリアズナと一緒に踊るため、陸軍駐在武官・田中義一少佐(後の陸軍大将・内閣総理大臣)とダンスを習うようになったのも、この時のことだ。明治35年(1902)にシベリア経由で日本に帰国するが、律儀な広瀬はアリアズナと別れてからも死の瞬間まで文通を続けていたという。
 ロシアとの開戦論が叫ばれるようになった頃、広瀬は英国で見た戦艦「朝日」の水雷長になっていた。明治37年(1904)2月、日露戦争が始まる。広瀬は連合艦隊と共に佐世保を出港し、旅順へ向かって出撃した。ロシアの太平洋艦隊が連合艦隊との戦闘を避けるために旅順に潜み、バルチック艦隊が到着するまでむやみに出撃しない戦略をとった。太平洋艦隊は日本にとって大きな脅威だったので、連合艦隊は港の中に艦隊を閉じ込めるため、旅順口閉塞作戦を敢行した。これは、米西戦争でアメリカが行ったサンチアゴ港閉塞作戦(1889年)を参考に発案されたもので、旅順港の入り口に古い船を沈めてロシア艦船の通航を遮断するのが目的だ。
 敵の砲撃や機銃掃射にさらされながら船を沈め、別の船で帰還するという危険な作戦だった。そのような任務であったにも拘わらず、第一次旅順口閉塞作戦で第二閉塞隊の指揮官として選ばれた広瀬は、自分の任務に満足し誇りに思っていた。いよいよ天皇陛下のため、国のために命を賭ける時が来たのである。2月24日早朝に作戦を敢行し、広瀬の隊は「報国丸」を沈め、無事に帰還した。
 旅順口を閉塞するまでには至らず、満足な成果を得られなかった連合艦隊は、第二次旅順口閉塞作戦の遂行を決定した。広瀬は第二閉塞隊の隊長として「福井丸」に乗り組み、旅順へ向かった。しかし、二回目の閉塞作戦の際は、ロシア側も一網打尽に日本の艦隊を入り口で殲滅するため、周到な準備をしていた。広瀬も二回目の作戦は一回目よりはるかに困難で危険なことを予想していた。広瀬は死を覚悟し、兄にあてた手紙には、楠木正成の「七生報国」(七度生まれ変わって国に忠誠を尽くす)の精神が我が精神であると書き記されていた。
 3月27日旅順港口に到着。たちまちロシア軍に見つかり、砲台と哨戒艦から砲火を受ける。サーチライトで照らされ、船がロシア軍に晒されてしまう。船が第一閉塞隊の「千代丸」を沈めた左側に着いた瞬間、ロシア軍の水雷が命中して船が沈没した。広瀬と乗組員は短艇に乗り込む用意をし、号令をかけて点呼する。
 ところが、杉野孫七上等兵曹の姿が見えない。部下思いの広瀬は単身「杉野!」と呼びながら船内をくまなく探した。一人で三回探したが、ついに見つからず、無念の気持ちを押し殺して短艇に乗り込んだ。
 そして船が引き返す途中、血しぶきを浴びた山本機関兵と栗田機関長は、広瀬の姿が見えないのに気がつく。広瀬は砲弾が頭部に当たり体が海に投げ出され、壮絶な戦死を遂げたのだった。天皇陛下と国のために命を捧げるのを本望とした軍人の最期だった。
 広瀬には、閉塞作戦を成功させた後、ロシアに降伏を促し、日本人とロシア人が血を流すことを避けたいという願望があったという。しかし戦況はそれを許さず、海軍は陸軍に旅順の攻略を要請し、203高地の戦いをはじめ旅順攻囲戦が行われ、双方が多数の死者を出す結果となった。
(2022年9月10日付 791号)