嵐山に異教の痕跡を見る

京都宗教散歩(1)
ジャーナリスト 竹谷文男

桂川の堰

 聖徳太子は遺言で「二百年後に山城(京都)の地が都になる」と予言したといわれている。その太子を助けた渡来氏族の長であった秦河勝(はたのかわかつ)は、嵐山の桂川に一種の堰(せき)と用水路を築き、洛西一帯を開拓した。
 秦氏が築いた堰と水路の様式は、中国の古代蜀(しょく、四川省)の都江堰(とこうえん、世界遺産)と同じ様式である。川の流れが山岳部の保津川と呼ばれる急流から、勾配の少ない嵯峨野・嵐山と呼ばれる平野部にさしかかる辺りで、比較的に高い水位を利用する。川岸から魚の口のように半島状にせり出した中州を築いて流れを受け止め、岸側に用水路を開く。用水路からは水を逃がす水路を本流に向けて掘り、洪水の時などには用水路に必要以上の水量が流れないようにしている。こうして、自然の高度差による水位を利用して用水路を本流から分岐させて田畑を潤し、中州である「中の島」は、洪水時に奔流が用水路を破壊することを防いだ。
 中国の都江堰も同じ構造と原理にもとづいて建造されていた。都江堰によって四川盆地、後の蜀の国は豊かな農産物を得ることになった。三国志の「天下三分の計」において蜀が、魏と呉に対抗できたのも都江堰のおかげだった。
 同様に秦氏は、平安京以前において治水によって洛西の荒野を農地に変え、都を準備する財力を生み出した。そして、太秦を本拠として渡来人としての文化も担った。
 嵐山と同じ様式の堰は、福岡県朝倉市などにも残っている。一六六三年に作られた堀川用水であるが最近、アフガニスタンで水路を建設し、タリバンに襲われて亡くなられた中村哲氏も、この堀川用水を見学して参考にされた。
 秦氏は治水事業のほか、養蚕、織物、文物をもたらし、仏教を信奉した。聖徳太子の盟友とも言うべき秦河勝は、京都で最古の広隆寺を太秦に建て、弥勒像(国宝)を収めた。境内には太子堂、太秦堂などがあり、秦河勝夫妻と伝わる神像も収められている。
 しかし、広隆寺は、仏教が日本に入ってきた頃に建てられたためか、仏教以外の私宅宗教の痕跡をいくつか留めている。江戸時代の国学者の中には「本当にこれが仏教の寺なのか」と疑うものもいた。かつて行われていた「牛祭」は、牛を神聖視して牛と共に練り歩く京都三大奇祭の一つだった。「異形の神」を感じさせる異国情緒豊かな秋祭りで、江戸期にも民衆の人気があった。現在、その祭りは中止されている。仏教とあまりにかけ離れた異教的なものであるためか、人々による継承が難しい面がある。
 また、寺に残る様々なマークも興味深い。例えば十字架をデザインしたようなマークは石灯籠に彫られていたり、☆型の五芒星の扁額が、太子堂の縁側に掲げられている。
 広隆寺の東には秦氏にちなむ通称、蚕ノ社(かいこのやしろ=木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ))がある。同社は、平安期に書かれた「延喜式」に記載がある、いわゆる式内社である。社伝によると、雄略天皇の時に秦氏は、中国南部から漢織女(あやはとり)、呉服女(くれはとり)という養蚕と織物の技術集団を連れて来たとある。秦氏自体は何波にも分かれて渡来してきた。

蚕ノ社の三柱鳥居

 蚕ノ社の境内には、三本の柱を組んで三組の鳥居を組み合わせた「三柱鳥居」が建つ。これは極めて珍しいもので、社伝によると、景教(ネストリウス派キリスト教)の教義である三位一体(父なる神、子、聖霊が同一本質であること)を示唆しているという。景教の教義である三位一体は、当時の漢語文献では「三一妙身」と表現されていた。また、景教では三位一体の教えを「玄理」と表現した。玄は玄妙、理は真理で、玄妙な真理との奥義の意味である。この鳥居は三位一体の、すなわち「三一妙身」の玄理を、物を介して形象的に表現したものなのだろうか。
 ここの三柱鳥居を模したものは、日本各地に十基近く知られている。しかし、対馬にある和多都美(わだつみ)神社にある二基の三柱鳥居は、大陸、半島から日本への渡来の順序から考えてみても、太秦のものを模したものとは考えられない。二基のうち一基は、池の中に立つ。
 同社は式内社であって、祭神は山幸彦として知られる彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)およびその妻・豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、すなわち初代神武天皇の祖父母である。対馬という、京都とはるかに離れ、渡来民族が通過したであろう島の神社に二基も三柱鳥居が残存していることは、太秦を開拓し殖産した秦氏のルーツを考証する上で、無視できないものであろう。
 なお、蚕ノ社の三柱鳥居も、約五十年前には嵯峨野の地下から湧き出す清水をたたえた池の中にあった。近くではこの池から流れ出る小川で野菜を洗って朝市が賑わっていたという。
 この蚕ノ社の隣に大酒神社があり、これもまた式内社だ。祭神は「秦始皇帝、弓月君、秦酒君」である。相殿は「兄媛命(えひめのみこと)、弟媛命(おとひめのみこと)、呉服女(くれはとり)、漢織女(あやはとり)」で、彼等は養蚕、機織りを伝えたという。繊維関係の企業である呉羽紡績や綾羽グループなどに、どのような由来かは不明ながら、今も名を留めている。
 大酒神社は、「延喜式」によると元の表記は「大避神社」、祭神は「大辟神」、読み方は「ダービ神」。そのため古代ユダヤ王国のダビデ王を祀っていたとの説もある。
 門前の石柱には「養蚕、機織り、管弦、楽舞の祖神」と銘記されている。秦河勝は、能楽の祖とも言われ、現代の雅楽師・東儀家などはその子孫である。
(2021年11月10日付 781号)