『五重塔』幸田露伴(1867〜1947年)

連載・文学でたどる日本の近現代(23)
在米文芸評論家 伊藤武司

「紅露時代」を形成
 明治の日本には欧米の技術や思想・文化・芸術など多彩な観念が流れ込んできた。そんな時代に生きた文豪・幸田露伴は、80年にわたり激動の歴史を生きた作家である。雅号・露伴の由来は、「里遠しいざ露と寝ん草枕」という自作の句からとったという。
 幸田家は代々お坊主衆の役職を継ぐ幕臣。その四男として1867年に誕生した。上野にこもった彰義隊を新政府軍が攻撃したため、家族は浅草方面へ避難している。実兄に千島列島を探検・開拓した郡司成忠大尉が、歴史学者となった弟、欧米に留学して本格的な音楽家となった妹が二人いる。
 幼少のころ凧あげやコマ回し、タケウマ、魚釣りなどで遊んでいたが、7歳から漢文を学び小学生では草双紙の類を読んでいる。中学は1年で辞め、私塾で漢学をおさめる傍ら、図書館にかよい知識をひろげた。
 居寓地の谷中には根岸党という、江戸時代に生まれた青年たちの遊びや旅行などのグループがあった。仲間は岡倉天心ら文士、画家、商売人、官吏など。露伴の旅好きは相当なもので、北海道から九州まで、全国各地を汽車や徒歩で訪れその体験を紀行文、日記、随筆につづり小説に結晶させている。
 21歳の時、家族一同がキリスト教に入信する中、露伴は拒んで仏教研究に専心する。明治20年代に、尾崎紅葉とともに「紅露時代」と呼ばれる一時代を形成。両者は近代最初の批評家・坪内逍遥が明治18年に著した『小説神髄』に触発されたのである。この文芸理論書は、江戸の戯作文学とは一線を画し、ありのままの事物や人生を客観的に模写することを主張していた。
 ここから、近代文学史上有名な明治22年の鴎外・逍遥文学論争が起きた。ヨーロッパから帰国した鴎外は、逍遥の見解に真正面から反対した。前後して文壇では、二葉亭四迷や山田美妙をパイオニアとする言文一致運動が勃興し、明治30年代後半から国民的なレベルの運動となった。
 ちなみに、漢文調の美しい文語を特徴とする作家には、『舞姫』『即興詩人』の森鴎外、詩歌の与謝野晶子や『浮雲』の二葉亭四迷、山田美妙、夭折した樋口一葉らがいる。露伴は小説『たけくらべ』を称賛し、若くして死にゆく彼女を惜しむ一文『樋口一葉』があり、鴎外も一葉の境遇に思いをよせる言葉を述べている。
 露伴的作風の先鞭とされるのが仏師・珠運を主人公とした明治22年の小説『風流仏』。木曽街道を歩きながら土地の見聞を旅日記をつけるように執筆したと「自作の由来」に記している。仏教的思想を底流させ、清浄な恋の物語は露伴の文名を高めた。
 一番有名なのは、大工の棟梁が登場する25歳の一編『五重塔』。評判をよび、舞台の上演や映画化もされた。『一口剣』も刀鍛冶による職人魂の光る力作で、未完の長編『天うつ浪』や『運命』もある。口語では『頼朝』『蒲生氏郷』『平将門』の史伝類に、晩年の歴史物『雪たたき』。『連環記』は、縁が縁に連なり結びあって環を形づくるという人生の霊妙さを視覚化した物語である。昭和初期に生まれた文芸評論家・篠田一士は、『連還記』を最高傑作と激賞している。その他ユニークな評論としての人生訓『努力論』、児童文学にも筆をそめ、詩人的魂を発揮して、自作の漢詩を作品の中にそえたりした。
 露伴は日本の古典・中国の漢籍に通暁していた。仏教、儒教全般に詳しく、道教研究の先駆者でもあった。このように露伴文学の世界は、豊かな知識と深い思惟を駆使した基盤の上にはばひろく多様に構築されている。


江戸大工の心意気
 『五重塔』の設定は江戸時代。谷中の自宅近くにあった感応寺境内の五重塔をモデルにしたという。執筆にあたって大工の建築道具類を調べたり、木造建築の模様を丹念に入手している。主要な人物の造形には実際に実在した二人の大工に著者の想像力をくわえてストーリーにしあげている。
 読後の第一印象は、あたかも名講談を聞いたようである。小説の主人公は30前後の大工職人・十兵衛。その風貌からして仕事熱心な江戸っ子で、技はあるが仲間からは「のっそり十兵衛」とあだ名され軽んじられていた。川越の棟梁・源太郎親分の下で仕事を分けてもらって家族を養っていた。露伴は江戸の空気や香りに濃く密着した職人をそろえ、本作を創作した。
 『五重塔』の独自性は、時代の空気を巧みにすくいとった点にある。歯切れのよい口調、男同士のぶつかりあい、江戸っ子の心意気、また、人の情けの機微など時代の風景が全編に貼りついている。つまり、露伴の個性と作家としての実力を味わえる内容である。ちなみに露伴の日常の会話も江戸弁であった。
 十兵衛は世間を渡る知恵に疎く、朴訥・不器用で風采のあがらない人物である。貧乏所帯には利発な女房お浪とあどけない子供がいる。世間的欲にはとんと無関心であるが、職人としての誇りと気骨は誰にも負けない。親方の源太も生粋の江戸っ子で度量もあるがただ短気だった。二人は各々が仕事に命をかけながら、懸命にしのぎをけずる師弟関係であった。
 さて、ここに「三歳児も合掌礼拝すべきほど」尊崇をあつめる感応寺の朗円上人がいる。上人は喜捨された浄財で寺境内に五重塔の造営を考え、その沙汰が棟梁源太に伝えられたことから、十兵衛は、塔建造の直談判を決心して寺に駆け込む。職人として「一生一度百年一度のいい仕事」をしたいのが十兵衛の本心。夢にまで見、五十分の一の塔の雛形まで造り、大仕事を手がけたい一念でいっぱいだったのである。
 唐突な話を受けた上人は、塔の雛形を見て感心し、十兵衛と源太の両人が心を一つに建造することを、ある仏話から語り諭した。それを聞かされるや、「二人とも顔見合わせて茫然」となるが、十兵衛の内心は納得できない模様。小説は強情をおしきろうとする執念の男を主人公に、義理と人情のまじりあう江戸職人たちが登場する男の世界のドラマといえよう。
 日ごろから十兵衛の技量の確かさを十分に認めている棟梁源太は、「尖りあうのは互いにつまらぬこと」と共に仕事にとりかかることを提案。しかし、情けをかけられることを潔しとしない一徹者には通じなかった。恩義ある親方に向かって「いやでございます」と不愛想な言葉を言い放ってしまったのだ。
 親方の面目は丸つぶれである。そしてついに堪忍袋の緒をきってしまう。語気も荒々しく、凄みをきかせてにらみつける様が目に浮かぶようだ。その間も、女房たちは気をもみ、きぜわしく動きまわるがそれもままならない。親方に強がりを言い張った十兵衛も、女房の前ではさすがに弱音を吐く有様である。
 結局、源太は仏塔の建造を十兵衛に一切譲ることを上人に申し出、受諾される。ところが、怒った源太の子分が職人たちが働く普請場へ殴り込み、十兵衛に切りかかるという刃傷沙汰を引き起こしてしまう。
 事態を重く察した源太は、上人に詫びをいれ、その弟子と縁切りをする。負傷した十兵衛は、女房の心配・狼狽ぶりにも一向意に介さない。現場の見回りをおろそかにすれば親方に顔向けができず、敬服する朗円上人と寺側にもあらぬ迷惑をかけてしまう。ようやく職人たちを指揮する「総棟梁」になった身には死んで本望という意気ごみがあった。
 女房の止める声を背に、片耳をそがれ肩に傷をおった痛々しい姿で、大工たちの働く現場へ現れた。職人たちの意識が一気に燃え立ったことはいうまでもない。こうして五層の美麗な塔は、予定どおり見事に完成。後は落成式を待つのみとなった。
 ところが夜半から風が吹きだし、次第に激しくなる模様である。小説が傑作と称される終盤部分、すべてが息詰まり緊張感の張りつめる情景描写は迫力満点である。この暴風のシーンは、作者が半ば以上を書きあげた段階で、実際に遭遇した大嵐からヒントを得たという。
 「夜叉王」のように大暴風雨が夜通し暴威をふるい、「江戸四里四方の老若男女、悪風来りと驚き騒」ぐ。家々は「未曾有の風」にゆさゆさと横揺れ、屋根をめくる様は不気味で、ついには吹き飛ばされる。感応寺の本堂も揺れ動き、塀は倒れ、樹木をなぎ倒した。闇の夜空に屹立する五重塔は、「揉まれ揉まれて九輪は動き、頂上の寶珠は空に得讀めぬ字を書き、岩をも轉ばすべき風の突掛け来り、…木の軋る音、復る姿、又撓む姿、軋る音、今にも傾覆らんず様子」。
 ところが十兵衛は落ち着きはらって動かない。あばら家は雨戸が吹っ飛び、屋根の半分ははがれ、ゴザをかぶって雨を凌ぐ親子三人の姿は哀れである。再三の寺からの催促でやっと「のっそり」が立ち上がった。「猛風の呼吸さへ為せず吹きかく」「風の来る度にゆれめき動」く五層の塔の最上階に登った十兵衛は、眼を見張って漆黒の夜空をにらみつける。ようやく、空前絶後の大暴風は明け方に止んだ。噂話の好きな江戸の住民たちの話題は感応寺の塔に集中した。
 「釘一本ゆるまず板一枚剥がれざりしには舌を巻きて讃嘆」「甚五郎このかたの名人じゃ真の棟梁じゃ」と噂することしきりであった。己の建てた塔に託す十兵衛の気迫・毅然たる心意気も堂々と、文句なく終焉にふさわしい感動的な結末となった。
 塔の落成式が終わった日、棟梁源太と「のっそり十兵衛」を呼びよせた上人は「満面に笑みを湛えて」墨痕鮮やかに「江東の住人十兵衛之を造り川越源太郎之を成す」と記した。この「宝塔」に秘められた話は、「百有余年の今になるまで、譚は活きて遺りける」と長く語り継がれた。大暴風の中で繰り広げられた男のドラマ『五重塔』は、露伴文学を象徴する傑作となったのである。


娘の文に看取られ
 何事にも研究熱心な露伴の趣味は多面的でまず将棋がある。角落ちでプロと手合わせ、4段というからかなり強かった。釣り舟を所有していた露伴は、井伏鱒二や開高健をも凌駕する最上質の釣りマニアであった。釣り針の工夫から魚類に関連する紀行文、随筆、評論、短編小説『幻談』などもある。鴎外や永井荷風とは旧知の間柄。俳句の研究では正岡子規、高浜虚子、小宮豊隆、斎藤茂吉、阿部次郎、和辻哲郎らとの交遊もあった。
 ところで創作力が枯渇したとささやかれたことがあったが、和漢の古典の研究、芭蕉俳諧の膨大な評釈に専念していたのである。やがて公表したのが歴史小説『運命』で、久々の復活は、文壇・知識人を驚かせた。明朝の建文帝を主人公に、雄大な構想に学究的知識を融合させた古典美に輝く名作である。『五重塔』『運命』『連環記』の三作が露伴文学の最高峰といえそうだ。
 一時期、京都帝国大学に講師として古典を教え、文学博士の肩書をもつが、青年時代から在野的生き方を通し、昭和12年に第一回文化勲章を授与された。
 妻の死によって再婚。最初の妻との間に生まれた娘に、私小説『おとうと』『流れる』『闘』などを書いた幸田文がいる。希有なことに芸術的遺伝子は4代にわたり、文筆にたずさわる。娘の文が、臨終の様子を『終焉』に記述している。血痰を吐く病人に、娘は「『おとうさん死にますか』と訊いた。『そりゃ死ぬさ』と変に自信のあるやうな云ひかたをし、『心配か』と笑った」。父を思いやる娘、心配をかけまいとする80歳の父、親子の情がしみじみと伝わってくる一品である。
 露伴は鴎外や漱石と並び称され、紅露時代の形成など近代文学史に輝いている。日本近代文学の流れを決定づけた功績と遺産は実に大きい。
 あえて言及すれば、文語作品にこだわり過ぎたのでは。文語体の文章は格調高く美しい。しかし、漢語が多くはさまれると難解のイメージがつきまとう。谷崎潤一郎が露伴を賛美したのとは対比的に、政宗白鳥は「鉄の棒を引きずっているような」読みづらさに閉口している。文章の本流が口語になるにつれ、当然、文語を駆使する作家・作品は凋落していった。自然主義が明治30年代に台頭、国語に対する日本人の意識構造が変化し、露伴の文壇的位相が相対として軽減感をみせているのは真に惜しまれることである。
(2021年11月10日付 781号)