日本型資本主義の倫理と仏教

2021年9月10日付 779号

 日本資本主義の父・渋沢栄一の肖像が使われる、2024年からの新一万円札の印刷が始まった。『論語と算盤』で知られるように、渋沢は日本型資本主義の倫理を儒教に求めているが、経済学者の寺西重郎一橋大学名誉教授は『日本型資本主義』(中公新書)で、鎌倉時代に易行化した仏教の影響が大きく、それを表現するのに江戸時代の官学だった儒教の言葉を使ったと述べている。

廻向の思想
 6世紀に渡来した仏教に国民思想の可能性を見いだし、『法華経』をはじめ在家の男女が主人公の『維摩経』『勝鬘経』の注釈書を著し、推古天皇に講義した聖徳太子以来の日本仏教の系譜からも、その見方は正当だろう。
 インドで生まれ中国を経て日本に渡来した仏教は、自分の悟りよりも人々の救済を求める大乗仏教で、利他主義、布施の思想が日本人に広がった。「日本人の最大の発明は村だった」と哲学者の鶴見俊輔が言ったように、風土や心性に根差した共同体の倫理をつくることが、社会生活を営む上で重要だった。人は死を考え、生きる意味を求めるものなので、その根拠を聖徳太子は仏教に発見し、古代国家づくりの基本に据えたのである。
 寺西教授は、経済倫理の核心を仏教の「廻向」に求めている。廻向とは、難しい学問や修行をしなくても、日常生活における精進や身近な人への善行が、自身の悟りへの修行になるという大乗仏教の教義で、世のため人のために尽くすことが、ひいては自分の成仏、救いにつながるとした。俗に、働くとは傍を楽にすることと言われる。
 ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは、プロテスタントの世俗的禁欲が資本主義の倫理を形成したとした。その基になったのはカルヴィンの予定説で、救済される人間はあらかじめ決まっており、人間の努力や善行によって、変えることはできない、というもの。そこで人々は、「神によって救われているのなら、神の御心に適うことを行うはず」と考え、禁欲的に信仰と労働に励むエートスを生んだという。絶対神を想定するキリスト教社会では、神の栄光を示し、救いを確信するための倫理が必要とされたのである。
 それに対して、因縁を大事にする仏教社会では、身近な人のために尽くすことが、社会倫理として定着するようになる。それは古代からの共同生活を通して培われ、稲作によって洗練され、さらに仏教によって意味づけされた。
 倫理は社会の発展に伴って深められる。鎌倉時代から貨幣経済が始まると経済社会は複雑になり、人々はそれぞれ一芸を極め、その技や製品を交換することで社会を発展させるようになる。戦国時代に鉄砲が伝来すると、それをすぐに内製化し、分業により短期間で世界一の生産国になるだけになっていた。
 江戸時代になって社会が安定すると、そうした社会倫理はいろいろな分野に定着する。京都の友禅染には30近い工程があり、それぞれの技術を身につけた職人が腕を振るい、連携することで優れた作品を仕上げる。それを正しく評価し、対価を支払う消費者も生まれることで、社会全体が経済的、文化的に成熟していったのである。
 山本七平が日本的資本主義の形成者として評価するのが、江戸初期の鈴木正三(しょうさん)と中期の石田梅岩(ばいがん)、後期の二宮尊徳である。鈴木正三は徳川家康に仕えた三河武士で、関ヶ原の戦いで功績を上げ、旗本になりながら、武士の時代の終わりを感じ、出家して曹洞宗の僧になった。島原の乱で荒廃した天草の代官になった弟に招かれ、キリシタンに壊された社寺を再建し、農民らの心の復興に努め、後に職業修行論を唱えた。
 亀岡の農家に生まれ、京都の商家に奉公しながら、商人の在り方を探究した石田梅岩は、隠居後、私塾を開き、人としての在り様を極める石門心学を樹立した。その教えは弟子たちによって江戸にもたらされ、武士も習うようになる。二宮尊徳は、ひと鍬ひと鍬を修行と思い、節約によって財を蓄え、それを投資することで農業を発展させるよう指導し、多くの農村を復興させた。そうした日本型資本主義の倫理を継承し、明治の日本に実現させたのが渋沢栄一である。

時代の要請に応え
 宗教も時代の要請に応えることで歴史的に発展してきた。そうできない宗教は、やがて消え去ったのである。今の時代と人々の在り様を見つめ、その要請に応えようとする努力が宗教にも求められている。

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