健康長寿型の農業

2021年9月10日付 779号

 今年のコシヒカリの刈り取りは、一週間の長雨で8月17日からの予定が22日からに。風雨で稲が倒れ、溜まった水にモミが浸かって発芽し、出荷できない田んぼもあったが、実った後の長雨だったので、コンバインの操作に苦労した以外は、例年より豊作で安心した。農業が自然に左右されるのは今も変わらない。
登呂遺跡に再現されていた田んぼには、近くで採れる杉材で水路が整備されていた。今ならコンクリートだ。稲作にはそれだけの技術力、労働力に共同作業が必要で、その成功が集落を可能にした。
思い出すのは2月に訪問したインドのブッダガヤで、曲がった畦の麦畑に菜の花が咲いていたこと。こんなほ場では水管理ができないので、良質の米は作れない。農業での食糧自給ができないと、社会は安定しない。
登呂遺跡では自家消費以上に交換用のコメが生産できる豊かさが、防御の環濠や武器を不要にしていた。富の蓄積が階級闘争を招いたのではなく、平和をもたらしたのである。
集落の共同性も共同作業によって培われる。それぞれ一芸に長けた人たちが、互いに協力する関係である。天地子は集団営農に参加しながら、これが日本的民主主義の基本のように思えてきた。
仲間は高齢者ばかりだが、働いているから健康で、健康だから働き、健康長寿型の農業を実践している。ひょっとして、耕作放棄農地が増えている超高齢社会の日本を、このスタイルが救うかもしれない。

前の記事

信仰と行動