『1Q84(ichi-kew-hachi-yon)』村上春樹(1949年〜)

連載・文学でたどる日本の近現代(18)
在米文芸評論家 伊藤武司

 『風の歌を聴け』は村上春樹が作家デビューをした1979年の作品。主人公の大学生と親友がある夏を過ごすリアリズム手法による青春物語である。その時期、村上は大学に籍をおきながら、ジャズ喫茶のマスターを兼任していた。一方、現代アメリカ文学の翻訳も手がけ、後述するが、翻訳家であることが作品に深くかかわってくる。
 その後、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や『ノルウェイの森』を、7年後に『ねじまき鳥クロニクル』、『海辺のカフカ』を脱稿。2009年には『1Q84』を発表している。時代的に村上の作家生活は冷戦終焉の時期とほぼ一致している。
 同世代の作家には『限りなく透明に近いブルー』の村上龍や『枯木灘』の中上健次がいる。終戦から70年を経て日本人の意識構造に様々な変化が生じてきた。世界はますますグローバル化し、こうした変動の中で生まれたのが村上文学といえる。
 1987年の『ノルウェイの森』で村上春樹ブームが到来。ハルキストと称される人々や読書グループが出現し、現時点で一千万部というけたはずれの超ベストセラーに。流行作家のイメージが定着する中、新しい時代にふさわしい作家像が期待された。

「シンフォニエッタ」
 長編小説『1Q84』の特徴を、レオシュ・ヤナーチェクという人物を手掛かりに始めてみよう。ヤナーチェクは170年前のチェコの作曲家。生前はあまり知られていなかったが、70年代後半に脚光を浴びるようになった。その楽曲に「シンフォニエッタ」という20分足らずの管弦楽曲がある。金管楽器から奏でられるファンファーレ、力強いドラムの連打音、曲全体をおおうポエチックで幻想的な音色が心の深奥に染み込み、一度聴いたら忘れられない。
 『1Q84』のしょっぱなから流れでるのがこの曲。渋谷方面へむかう渋滞中の高速道路、個人タクシーの後部席で主人公がFM放送の音楽に耳をかたむけている。ファンタジックな物語の序幕にふさわしい斬新、かつ絶妙な仕掛けといえる。作者は、運転手の「ものごとは見かけと違います」の気にかかる一言でその先行きを仄めかす。ヤナーチェクのコンサートが終わり、長い拍手が鳴り響く。その拍手に押されるようにミニスカートの主人公・青豆雅美は、緑色のサングラスとショルダーバッグを肩に、高速道路の非常階段をつたわり地上に降り立つ。
 三、四章あたりまでじっくり読み進まないと大筋のポイントはつかめない。なんと彼女はクールなプロの殺し屋。一つの仕事を済ませると、異次元へと移動してしまう。青豆の登場は、アメリカの作家クランシーの犯罪小説のようである。
 「身体のねじれのような感覚」に襲われた彼女は次第に混乱する。「少し前まで、世界は彼女の手の中に収められていた。これという破綻も矛盾もなく。しかしそれが今ではばらばらにほどけかけている」。やがて「狂いが生じているのは私ではなく、世界なのだ」と気づくのである。
 もう一人の主人公・川奈天吾は、予備校で数学を教え、「天吾くん」と呼ばれる文学青年。生まれてほどなく母親が死亡、元NHK集金人の父親は療養所生活。結婚している年上のガールフレンドと時たま会っている。彼もねじれの感覚の「発作」の後、「時間が奇妙な流れ方をし、光景が不思議な歪み方をする」舞台へ滑りこんでゆく。
 小学校4年まで同じクラスで学んだ2人には、どこか似た面影があった。不幸な家庭に育ち、孤独な彼らは、家を出ると自分のアイデンティティを求めて模索している。
 長編『1Q84』は、深田絵里子(ふかえり)という17歳の少女が知覚した手記「空気さなぎ」を、天吾が手直しして文学賞をとろうという段取りから刻まれてゆく。ある宗教団体にからんだ「空気さなぎ」の小説は、予期したとおり新人賞を獲得、ベストセラーになる。ふかえりも含め登場する子供たちは、過去に不幸な傷を負う者ばかり。「ゴーストライター」の天吾には、過去を書き直し新しい世界を創りだす使命が賦与されていた。その帰着として、天吾と青豆は異次元の世界へ入りこみ、新しい環境の下で多くの危険な試練に直面することになる。
 最終巻ではもう一人、異形の風貌の牛河利治(ウシカワ)が登場。流れのポイントは、10歳の時以来、出会うことのない天吾と青豆が主人公である。しかし、二人の意識は心の本質的な部分で引き合い巡り合うことを渇望していたのだ。その絆はどのような困難に遭遇しても切り抜ける強い愛の力であった。
 無口で孤独を愛する天吾と青豆はそれぞれが「シンフォニエッタ」の響きをうけながら、次第に異次元の世界に潜入してゆく。別々の人生を踏んできたパラレルな物語は、過去の記憶と現実の生活を往き来しつつ、最終的に一つの本流へと合流する。その場は意識はそのままの、ただ現実が消滅するというパズルの地平、大きさと色の異なる二つの月が輝く「何が起こってもおかしくない」妖しげな1Q84の世界であった。
 「奇妙な」混とんとした「新しい世界に漂流する」2人。彼らの周辺では、ジョージ・オーウェルの『1984』のビッグ・ブラザーを連想させるリトル・ピープルという正体不明の人たちが出没し、スリラーもどきの人物たちが跳梁する。死の危険に曝される青豆を、影でなにかと助けるタマルという人物もしっかり輪郭づけられて好感がもてる。
 さて、小説の概観はロマンチックな恋愛小説というべきか、未知の世界でくりだされるファンタジーか、それともスリリングにみちた冒険と娯楽性のエンターテイメントであろうか。以下、小説の構造や文体の特徴を考察してみよう。

簡素な文体と音楽
 村上作品の最大の特徴は文体かもしれない。実にスムーズに読むことができ、純文学系小説に慣れ親しんだ者はある種の驚きを感ずるほど。日本的情緒とはどこかかけ離れている。『海辺のカフカ』の一文を引いてみよう。「彼はアルマーニふうの濃い色のサングラスをかけ、Vネックの白いTシャツの上に格子柄の麻のシャツをはおっている。白いジーンズに紺色のコンバースのロウカット。カジュアルな休日の身なりだ」。
 『1Q84』だと、「彼女はクラシック音楽よりは古いジャズのレコードが好きだった。…とくに好きなのは、若い頃のルイ・アームストロングがW・C・ハーディのブルースを集めて歌ったレコードだった。バーニー・ビガードがクラリネットを吹き、トラミー・ヤングがトロンボーンを吹いている」。
 カナ文字が多く、モダンな欧米風の文化や鼓動がただよう。アメリカ的気質の匂う翻訳調の文体でもある。自身のコメントによれば、ファンタジーとユーモアの『羊をめぐる冒険』に登場する「羊男」は、アメリカの作家・スティブン・キングの『The Shining』やフランス映画「血と薔薇」からヒントをえたという。
 これを踏まえ村上の立ち位置はグローバルかナショナルなのか、という専門家でも意見の分かれる論究がなされてきた。いわゆる和洋折衷とは違う、文化的無色性の強いコスモポリタン的性向なのである。
 後天的に習得された文学的稟性が、早い段階で創作精神の中枢に刷り込まれているという捉え方はどうだろうか。村上は、日本人の地盤を保ちつつも、それを数段超えた地平にいる。
 『1Q84』を英語版で読んだ東南アジアの友人は、「文句なく面白い」という。そして、彼はきっとノーベル賞を射止めると語っていた。今日では、村上の文章や生活パターンまで熱心にコピーするハルキストまでいる。
 作家としてのテーマは、簡潔・単純な文体をどう生みだせるかだったという。参考にしたのが英語圏の小説で、映画やシナリオ作りの経験が役立ったという。「オリジナルであること」を自負しながら創作にあたっていると『自作を語る』で綴っている。
 音楽や映画との相性も色濃い。『ダンス・ダンス・ダンス』が好例だが、本作もヤナーチェクをはじめ、中学生から熱中してきたジャズや、大卒論文でアメリカ映画論を選んだ影響がある。物語性をレベルアップするのに、ミュージックを底流におき、映画のタイトルや小説家の名をタイミングよくまぎれこませる。
 視覚・聴覚に訴えるスタンリー・キューブリックやヒッチコックの手法は『ノルウェイの森』で試みられた。主人公はハンブルグのエヤーポートへ到着する機内で、ビートルズの「Norwegian Wood」を聴いている。『羊をめぐる冒険』では、テレビが市ヶ谷自衛隊のバルコニーで三島由紀夫が檄を飛ばしている。
 『1Q84』ではバッハの「マタイ受難曲」のアリアが歌われ、ハイドン、ヴィヴァルディ、シューマン、シベリウス、ワグナー、アームストロング、ビリー・ホリディー、ローリング・ストーンズ、ミック・ジャガー、マイケル・ジャクソン、クイーン、アバと、クラシックやジャズやポップスが勢ぞろいする壮観さだ。
 小説家ではシェークスピア、トルストイ、ドストエフスキー、チェーホフ、ディケンズ、プルースト、森鴎外などなど。村上の嗜好は多様なミュージックを耳元で流しながら創作活動をすることらしい。
都市文学
 『1Q84』は最後まで何が起きても不思議ではない。天吾と青豆は「動きの激しい迷宮にも似た」未知の世界をようやくのこと脱出し、1984年へ舞いもどる。だからハッピーエンドと考えたいのだが、どうも元々の世界ではなさそうで、難しい設問をつきつけて読者を困惑させる。多くのしかけや謎をひそませた設定に、イマジネーションがいやがうえにもかきたてられる。
 入りやすいが、物語自体は単純ではない。ひとたび内側にとどまると、ストーリーの進行から目が離せなくなる。文中に詩的な表現、哲学的人生論、時間と空間の論議、国際情勢や歴史の詮索、出版界の裏話、ユングの心理学や神話、カルトと過激左翼集団、ジェンダー論、捨てがたいセリフやユーモアたっぷりの会話がちりばめられている。読者は、主人公と一つになってファンタジーな世界を旅することになる。
 大江健三郎は、村上作品を「都市文学」と形容した。ステージは世田谷や杉並から新宿、青山、赤坂、麻布、六本木などの都心、遠くて千葉や山梨あたり。時代を80年代前半に置き、60・70年代を振りかえりながらひもとく。きわどい性的描写、殺人のシーンなどは現代的センスで処理され、モダンで魅惑的な大都会の中、軽快に移り変わるストーリーに小気味よさを覚える。
 小説には癒やしの効果があるとの論究もある。たとえば天吾は、相談事、悩み事、あるいは内密な話をもちかけられると静かに聴きこむ。聞き役に徹しリードされることに安堵する。読者はその優しさに安らぎや共感を覚え、静かなハーモニーに包みこまれる、と。
 村上文学の神髄は、芸術性と大衆・通俗性の両面をもつ表現形式が基調。成功の秘訣は、都会的で現代風のタッチで仕上げた物語に、論じてきた要件のすべてを充たしそれ以上の要因を集積したことに求められる。村上自身「総合小説」をめざしたと明かしている。
 2009年に『1Q84』Book1、Book2を発刊、最終巻のBook3は翌年の書き下ろし。数十か国語に翻訳され、店頭で販売されるとたちまちベストセラー。「シンフォニエッタ」も売り上げがのびたという。アイルランド、デンマーク、そしてチェコのフランツ・カフカ賞やイスラエルのエルサレム賞なども受賞し、スペインから勲章も授与された。
 村上は今年72歳、日本の文学界はもとより世界でも無視できない作家である。ネコを好み、ミュージックを聴き、走ることに向き合い、どこまでも個性的に生きている。今後、どのような作品を生み出すのか、世界中の読者が期待している。
(2021年5月10日付 775号)