「生(命)への畏敬」に生きる美しさと難しさ

連載・シュヴァイツアーの気づきと実践(23)
帝塚山学院大学名誉教授 川上与志夫

 倫理は実践されなくては意味をもたない。シュヴァイツァーは自ら生み出した「生(命)への畏敬」を、日常生活の中で実践していくこととなった。われわれ人間は、よりよい環境で平穏に生きたいと願っている。傷つけられたくない。だから、すべての生(命)を最大限に尊重しなくてはならない。さらに、それに寄りそって、よりよく生きられるよう手助けする義務を負う。それを傷つけないよう留意することも求められている。
 命を傷つけることなく、その生を手助けする。世の中にこんな思想と実践があるならば、人びとは幸せになり、世界平和が実現するだろう。生(命)への畏敬の倫理は、それが十分に実践されれば、この上なく美しく理想的な倫理思想なのだ。
 命を大切にするため、シュヴァイツァーは蚊やハエすらも殺さない。柱を建てるために掘った穴に虫が落ち込んでいないかを、いちいち確かめた。病院の庭にいる犬やアヒルに餌をやる。
 病院を建てるために邪魔になる若木は、面倒でも移植した。さらにシュヴァイツァーは、芝を踏まないように遠回りをしたのだった。徹底した生(命)への畏敬の実践である。
 シュヴァイツァーは安楽椅子を嫌い、それに座ることを拒んだ。安楽椅子は心地よい。座ると動きたくなくなる。怠惰の心が生まれるからだ。われわれの命は倫理を実践し、他者を幸せにすることにある。安楽に過ごす時間があったら、自らを磨き、他者に仕えるべきだ、というのが彼の思いである。だから甥がテニスに興じているのを見て、小言を言ったことがある。彼の思想は自分にとって実に厳しいのである。
 ではなぜ、彼はピアノを弾き、執筆に時間をかけるのか…。これに対する彼の答えはいたって簡潔明瞭である。ピアノは心身の疲れをいやし、明日への活力を生み出してくれるからだ。執筆も心の欲求であり、読者への啓蒙と示唆になるからである。まさにその通りだと言えよう。だれにとっても、一時の安らぎはなくてはならないのだ。
 ところが、この思想を100%実践することは、初めから不可能である。命を殺してはならないと言っておきながら、シュヴァイツァーは飼っているペリカンに、毎日、何匹もの魚を餌にして与えている。さらに、シュヴァイツァー自身、毎日、命である肉や魚や野菜を食べているではないか。要するに生(命)への畏敬の倫理は、生まれた瞬間に破綻してしまっているのだ。この重大な矛盾について、シュヴァイツァーは次のように弁明している。
 「命を大切に活かそうとする創造意思と、それを殺してしまう破壊意志とが同時に起こるこの矛盾は、永遠に解決不可能だろう。私にとっても理解しがたい謎としか言いようがない。ただ一つ私に言えることは、命を傷つけたり殺したりしなければならないからこそ、不必要な殺生は絶対にしてはならない。さらに、できる限りの配慮をして、命をいたわり、命を傷つけないように心がけねばならない。その心構えによって、生(命)への畏敬の倫理は、かろうじて実践倫理として認められるのだ。」
 苦しい言い訳ではあるが、これによりこの倫理の美しさは保たれていると言えよう。
(2021年5月10日付 775号)