正徹と雪舟

連載・岡山宗教散歩(17)
郷土史研究家 山田良三

宝福寺の三重塔(岡山県総社市)

正 徹
 鎌倉初期に吉備津宮の神官家賀陽家出身の栄西によって禅(臨済宗)が日本にもたらされました。禅は鎌倉幕府の将軍家と執権北条家に受け入れられ、その外護を得て京にも進出、南北朝から室町時代になると、後醍醐天皇や足利幕府の外護を得て京の禅院は栄えて行きます。北条貞時が南宋に倣って五山の制を取り入れ、禅院の管理を行うようになります。室町に入ると京都五山と鎌倉五山に分けられ、禅院では漢文や漢詩が学ばれ学問や文化の場となります。元からの渡来僧一山一寧や夢窓疎石、虎関師錬などが活躍、五山文学として発展します。永源寺祖、美作出身の寂室元光もその一人で、その後、備中国から出た代表的な学僧が和歌の正徹(しょうてつ)と水墨画の雪舟です。
 正徹(1381〜1459)は、室町前期の歌人・歌僧で、本名は小松正清。字は清巖。庵号は今川了安により松月または招月と名付けられ、東福寺の書記を勤めたことから徹書記とも呼ばれました。
 小松家は代々岩清水八幡宮の祠官の家系で、備中国小田庄(現岡山県小田郡矢掛町小田)に下り、神戸(こうど)山城主となり後に小田氏と称します。正徹は小松(小田)康清、または秀清の子とされています。幼名は尊命丸で、幼少期から和歌に優れ、15歳の応永2年(1395)、幕府奉行治部方の月次歌会に出座し、冷泉為尹、為邦や今川了俊らと出会い、弟子となります。応永7年(1400)20歳の時に父と死別、応永21年(1414)に出家、東福寺に入って東漸健易に師事し書記を勤めます。同年4月の『頓証寺法楽一日千首』などに出詠して歌の力量を認められ、公武僧の主催する多くの歌会に出座、精力的な歌壇活動を展開します。
 応永 25 年(1418)伊勢、尾張に旅して『源氏物語』を講じ、紀行『なぐさめ草』を書いています。藤原定家に傾倒し、「夕暮を待つに命を白鳥のとはにうき世をさそふ山風」のような夢幻的で縹渺とした歌を詠み、清新且妖艷な新古今調、意表に出た奇抜な作もあり、風刺的な歌も詠み評判でした。しかし当時主流であった二条派からは異端視され、将軍足利義教の忌避にも触れて庵領も取り上げられ、最後の勅撰集である『新続古今集』には一首も入集されませんでした。永享4年(1332)には草庵が類火に遭い、詠みためた詠草2万数千首が灰燼に帰してしまいます。一方、武家や僧に崇拝者が多く、心敬・宗砌ら能の歌にも影響を与えます。将軍義教の死後は歌壇に復帰、晩年には将軍義政に『源氏物語』を講じています。
 1万千余首を集めた歌集『草根集』が遺り、永享5、6、9年の「次詠草」のほか、歌論書『正徹物語』や『源氏物語』の注釈書『一滴集』などの著が遺されています。
 生まれ故郷の矢掛町小田には地元の「正徹を顕彰する会」により、第三セクター井原線小田駅前に、正徹「顕彰碑」と「歌碑」が建てられています。

雪 舟
 雪舟(1420〜1502)は応永27年、備中国赤浜(現岡山県総社市赤浜)に生まれました。生家は小田氏です。幼い頃宝福寺に入り、10歳頃に京都の相国寺へ移ります。春林周藤に師事して禅の修行をなし、天章周文に絵を学びます。いずれも当時最高の師でした。
 画僧としての名声が高まりますが、禅僧としては「知客」にとどまったため、自らの道を画に志して、享徳3年(1454)頃、周防国の守護大名大内教弘を頼り、その庇護を受けます。画室雲谷庵(山口市天花)を構え、寛正年間(1460〜66)頃、元の名僧楚石梵琦の墨蹟〈雪舟〉の二字を手に入れ、自らの号を、拙宗等楊から雪舟等揚とします。拙宗と雪舟が同一人物であることを示す確実な史料は残されず、別人説もありますが、溌墨系山水画に共通性が認められることなどから、同一人物説が今では定説となっています。拙宗の真筆とされる作品は十数点が現存、拙宗が雪舟の若い頃の号とすると、後に風景画が多くなるのに対して、渡明前は仏画や人物画が多く、拙宗期を含むと、雪舟の現存作品数は約50点となります。
 雪舟は応仁元年(1467)に渡明、寧波から北京に上り、約2年間本格的な水墨画の研究に没頭します。北京では皇帝の命により礼部院中堂の壁画に筆をとり、評判となり、禅僧としても評価され、天童山景徳禅寺より「四明天童山第一座」の称号を授けられます。以後の作品の署名に度々この称号を用いています。このころ弟子に送った『破墨山水図』には、「明の画壇に見るべきものはなく、日本の詩集文や叙説を再認識した」とあり、明代の画家よりも宋・元代の夏珪や李唐などに興味を持ち、模写して勉強したようです。中国大陸の自然が印象深かったようで、「風景こそ最大の師」と悟り、日本への帰路、揚子江を下りつつ貪欲に各地の風景を写生しています。雪舟の風景画の景観は、今も中国の各地に残っています。
 文明元年(1469)50歳で帰国、豊後の府内(現大分市)に画房「天開図画楼」を開くと全国から注文が殺到、しかし応仁・文明の大乱の続く時代となり、画房を閉め全国を漂泊しつつ画を描き続けます。豊後から周防、石見に到り、文明13年(1481)秋には美濃、文亀元年(1501)頃、天橋立を訪れています。64歳で周防に戻り、大内氏の庇護のもと「雲谷庵」を開くと、全国から学びに来る者が多く、ここから「雪舟派」が広がって行きました。
 没年及び終焉地は諸説あり、その一つが文亀2年(1502)83歳、石見益田大喜庵東光寺説です。雪舟と親交があった益田兼堯の子孫・益田牛庵執筆の『牛庵一代御奉公之覚書』に、「雪舟…老い極まり石見益田へ参り彼の地で落命する…」との記述があります。ほかに永正3年(1506)87歳周防国山口雲谷庵説、安芸国仏通寺(現三原市)説、備中国重玄寺(現後月郡芳井町)説などがあります。

涙で描いた鼠
 雪舟の幼いころ涙で描いた鼠の話が有名です。「宝福寺に入った幼い日の雪舟が、絵ばかり好んで読経しようとしないので、寺の僧は雪舟を仏堂の柱にしばりつけてしまいました。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床に鼠を描いたところ、僧はその見事さに感心、雪舟が絵を描くことを許しました」とあります。初出は江戸初期に狩野永納が編纂した『本朝画史』です。
 江戸時代になると、当時画壇を支配していた狩野派が雪舟を師と仰ぎ、諸大名が雪舟の作品を求めるようになり、ある種神格化されて、「雪舟作」が急増、人気を反映して『祇園祭礼信仰記』のような作品も上演され、一躍有名になりました。
 総社市にある井山宝福寺は雪舟が幼いころ修行した寺として有名です。創建年は不明ですが、天台僧・日輪によって開かれた、元は天台の古刹で、鎌倉時代の貞永元年(1232)に備中国真壁(現総社市真壁)出身の禅僧・鈍庵慧總によって禅寺に改められました。四条天皇の病気平癒のための加持祈祷で、壇前に客星が落ち、病が平癒したとされます。星が落ちた場所に井戸を掘り「千尺井」と名付け、これが井山の山号になります。その後、天皇の勅願寺となり、塔頭・学院55、末寺300寺を数える大寺となりました。
 戦国の世となり、備中兵乱の中、天正3年(1575)、三重塔(現存)を除き、伽藍を悉く焼失し荒廃します。江戸期となると、岡山の池田藩や浅尾藩、さらに幕府の支援も受け、再び山門・仏殿・方丈・庫裏・禅堂・鐘楼・経蔵の禅宗様式七堂伽藍を備える本格的な禅寺として復興します。現在は臨済宗東福寺派の有力寺院となっています。
 本堂の仏殿は享保20年(1735)の再建、三重塔解体修理の際、永和2年(1376)の墨書銘が発見され、岡山県下2番目の古塔として、国指定の重要文化財となっています。境内は、春は新緑、秋は紅葉の名所で、参拝者・観光客が絶えません。
 宝福寺の裏から高梁川沿いの国道180号線に出た所、湛井堰を見下ろして井神社があります。兼安神社とも称されるこの神社は、堰の守りとともに湛井堰を改修した平家の武将妹尾兼康を祀っています。
 湛井堰は古代から吉備の野の灌漑用水の水源で、この水が吉備の一帯を潤しました。平安の末、児島湾岸の妹尾を治めていた妹尾兼安は、妹尾に至る用水路を改修、地域の発展に貢献しました。栄西誕生地近くの鯉山小学校の一角にその顕彰碑が建っています。
(2020年6月10日付764号)