『風土』和辻哲郎(1889〜1960年)

連載・文学でたどる日本の近現代(9)
在米文芸評論家 伊藤武司

比較文化論の始まり
 1935年発刊の『風土』について和辻哲郎は、ドイツの哲学者ハイデッガーの哲学に啓発されたと述べている。「存在と時間」の時間性の分析を、空間性や歴史性に結びつけながら、世界の異なる風土性を基軸に人間や文化を把握する試みで、和辻風土論として知られる比較文化論のパイオニア的な論文となった。専門は、哲学、倫理学、日本思想史で、代表的な作品は、ほかに倫理学を体系化した大著『倫理学』『古寺巡礼』などがある。
 序言で、本書の目的を「人間存在の構造機構としての風土性を明らかにすること」としている。副題の「人間学的考察」は、風土を下敷きにした人間研究という意味である。また、風土とは「気候、気象、地質、地味、地形、景観などの総称」で、「自分の風土学のねらいは必ずしも人文地理学と同じではない」と断っている。
 つまり、人間の外にある自然環境の観察が目的ではなく、人間の精神に深く根差し、その精神構造に刻印された「風土的自己了解」の仕方だという。例えば、風の強い土地にはそれに適応した独自の家屋の様式があるように、地域を支配する独自の風土が、そこに住む人間や民族の精神構造に生来的に内在しているという。そこから「人間の自己了解の表現にほかならぬ」とか、人間は「風土において我々自身を、見いだす」と認識している。
 さらに和辻は「風土は人間存在が己を客体化する契機」となり、「風土の有限性による風土的類型」という角度からは、「歴史的風土であるゆえに……同時に歴史の類型」になると説く。人間存在は「風土的であるばかりではなく、同時に、歴史的な特殊構造」を保持するとみたのである。
 こう分析された風土性の概念で、そこにつながる人間の特徴を論じたり、文化・芸術に触れてゆく。「風土の現象を文芸、美術、宗教、風習等あらゆる人間生活の表現のうちに見出すことができる」ということになる。
 和辻は風土の類型化を大きく三つに分類する。第一の類型はモンスーン地帯で、日本をはじめ、中国大陸の東側沿岸一帯、東南アジア、インド地域である。第二の類型は砂漠地帯で、西アジア、アラビア、モンゴル、アフリカなど。そして第三の区分は牧場(まきば)地帯で、ヨーロッパ大陸、南北ヨーロッパのことである。その際に学術的な専門知識とは別に斬新な方法をとりいれ、直観による感性を信頼し、観察を重視している。
 感性といえば、30歳で書きあげた『古寺巡礼』は、奈良の寺院や仏像仏画などの印象を、かなり自由な立場で記載した紀行文である。「風土」論の論究に、自分の観察による印象など五感の認識を積極的に活用しており、それは和辻の独自の形質といえよう。ただし個人的な主観である分、普遍性という面では弱点のあることを記しておく。
 三つある類型化の中で、まず砂漠地帯の論究から始めてみよう。本書は砂漠地帯の風土的特性を「乾燥」や「渇き」という語句で表現している。「住むもののない、従って何らの生気のない、荒々しい」世界、「生くるためには他の人間の脅威とも戦わねばならぬ」厳しい世界である。そこから、砂漠的人間の構造が「対抗的・戦闘的関係」であると導きだす。すなわち「自然との戦いにおいて人は団結する」強い傾向のあることを指摘し、これが砂漠的人間が所有する一特徴であると規定した。
 「人と世界との統一的なるかかわりがここではあくまでも対抗的・戦闘的関係として」表われる。ここから、遊牧の民の間では、絶対服従のきわだつ部族単位の共同体の出現をみたと説く。
 和辻は、ユダヤ民族が信じた絶対神に触れ、「沙漠的な人間の功績は人類に人格神を与えたことにおいて」絶頂に達したと述べる。「沙漠においては自然は死である。生は人間の側にのみ存する。従って神は人格神たらねばならぬ」と明言。他方、エジプトの風土の下では、古代エジプト人は、自然を「受動的に観照することにおいて、発達した」とみる。特徴あるこの風土性から、アラビアの町の景観、美術としてのモスクの華麗なモザイク模様、エジプトの巨大なピラミッドの誕生やミイラなどに言及している。

牧場的なヨーロッパ
 次に第三の類型化、ヨーロッパの牧場的な風土性の検討をしてみよう。『風土』は、「ヨーロッパの人間と文化がいかに『牧場的』であるか」を説いている。この風土性から受けた和辻の第一印象は、「ヨーロッパには雑草がない」という驚きであった。また樹木の形状が「標本のように端正で、従って規則正しい」といった印象も詳しく記している。
 2年間のドイツ留学中、和辻は南フランスからイタリアへかけて、地中海沿岸を旅行し、その体験を綴って日本へ送っていた。それを基に紀行文『イタリア古寺巡礼』を発刊し、日記風の記録の一部を『風土』に引用している。「空気は日本よりもずっと乾燥している。…雑草が少ない…山や野の色はいかにも潤いのない色で、見るからにカサカサしている」といった感想を、教会の建造物や古代遺跡、画の鑑賞、そして、各地の都市を訪れる合間に、強い関心を注いで記録していた。異郷の地で目にはいる自然の珍しさを鋭敏な感性が的確にとらえたのである。
 和辻は、もう一つの特性を「明るい、従順な、従って合理的な自然な姿」と形容する。その典型的な場を、三つの大陸に囲まれ「海を感じない」「乾いた海」という印象の地中海沿岸のイタリアにみた。イタリアは「湿潤と乾燥の統合」した地帯にほかならず、ヨーロッパ的牧場的風土の「揺籃の地」と位置づけた。
 さらに言葉をつなげ、イタリアをそのごとくになさしめた本源を、エーゲ海のギリシャに認める。ギリシャのポリス、彫刻、神殿、ローマにおける水道構築、公衆浴場、庭園、円形劇場、図書館などは、こうした風土性を基盤に登場したのだという。
 こうして、湿潤の冬・乾燥の夏を特徴とする風土、すなわち、牧場的な風景が地中海沿岸からヨーロッパ全域へ均一に広がっていることを記す。ところでこの風土性が、大陸の内奥部では、「西欧の陰鬱」へ変わることに着目し、「西欧における日光の乏し」さは、「特に冬の半年において顕著に見られる」とした。そこから、古代ギリシャが「静的、ユークリッド幾何学的、彫刻的、儀礼的」であるのに対し、「動的、微積分学的、音楽的、意志的」という、近代の西欧的特徴としての文化や芸術を数えあげる。ベートーベンの音楽、レンブラントの絵画、ゲーテの詩、カントの哲学などが西欧人の「陰鬱の苦悶」を契機として生みだされたと説く。また、「陰鬱から押し出されてくる深さと抽象とへの傾向」がキリスト教の「最もよき培養器」になったとする。
 ここから「西欧の陰鬱」が示唆する西欧的な特性が、「その本質においてはそれらは牧場的であり」、従って「ギリシャ的明朗」の古代と共通の地盤の上にあるという認識になったのである。西欧の陰鬱の精神が、「理性の秩序の確立、理性による自然の征服」をめざす源になるとともに、「無限の深みを追求する内面的な傾向として」働いたのである。また、ヨーロッパ世界の合理的精神や科学技術の発達の背景に、人工的・規則的で合理性のある牧場的特性があったことを指摘した。

モンスーン地帯
 第一の類型モンスーン地帯では、熱帯の大洋で温められた湿気をふくむ季節風が陸に吹きつける。これは特に夏に現われる現象で、和辻は「暑熱」と「湿気」「湿潤」との結合というキーワードによって吟味する。
 「暑さ」と湿気の高い「湿潤」な世界では、第一に大自然の恵みが多い。「夏の太陽の真下にある国土は、旺盛なる植物によって覆われる」。そこでの「人間の世界は、植物的・動物的なる生の充満し横溢せる場所となる」のである。つまり「夏の乾燥」「冬の湿潤」の牧場的な世界とはならず、かつ「乾燥」の砂漠の世界からは対極の位置、「人と世界とのかかわりは対抗的ではなくして受容的」な様相を呈するとした。こうした思考をへて、モンスーン地帯での、人間の一般的特色を「受容的・忍従的」ととらえたのである。
 モンスーン的風土は、中国にあっては「太平洋の影響を受ける限りのシナ大陸」に及び、大陸内部にまで広がっている。その例を揚子江を中心とした一帯に認め、「揚子江はモンスーンの大陸的具象化」であると考えた。その印象は、「大陸の名にふさわしい偉大さではなくして、ただ単調と空漠」であるという。ここから中国人の特性を、「短調空漠に堪え切るところの意志の持続、感情の放擲…伝統の固執、歴史感覚の旺盛」とし、さらに「血縁的もしくは地縁的団体の拘束以外」自由であると評する。
 一方、インドでは、インド的人間の特性を、雨季を基本とする「感受性の敏感」さに認め、「非歴史的・非統制的なる感情の横溢としての受容的・忍従的態度」が顕著であると分析する。この風土性から、インドの文化的現象、バラモン教、汎神論的神々の思想、聖典リグ・ヴェーダ、思弁哲学、統一性を欠いた美術の数々、彫刻、絵画、建築を説明した。
 和辻は「日本はモンスーン域中最も特殊な風土」性を見せているとし、その際立ち方は、夏の台風や大雨そして冬の大雪に顕著であると述べる。日本民族の性格を第3章「台風的性格」の中で、「まさにモンスーン的」と形容。すなわち「暑熱」と「湿潤」の強固に結合した性状が、時として「大雨、暴風、洪水、干ばつ」などの猛威をもたらす風土である。従って、「人間をして対抗を断念させるほどに巨大な力であり、従って人間をただ忍従的たらしめる」「台風的な忍従性」をもつのが日本人であるという。
 「豊かに流露する感情が変化においてひそかに持久しつつその持久的変化の各瞬間に突発性を含むこと、及びこの活発なる感情が反抗においてあきらめに沈み、突発的な昂揚の裏に俄然たるあきらめの静かさを蔵すること」としている。端的にいえば、「しめやかな激情、戦闘的な恬淡」といえるだろう。これを基本原理に、各種事象の多様にわたる日本文化論をくりひろげたのである。
 また日本人の存在の仕方を、「家族の全体性」を統合する形態としての「家」に求め、くわえて、この「全体性が歴史的に把握せられている」ことから、多角的に「家」論を展開した。日本の文化・芸術の世界もそうである。芸術、宗教、哲学・風習、恋愛観など。庭園では、大徳寺の真珠庵、桂離宮など。連句と連句的表現としての太平記、西鶴、近松の戯曲、能楽、歌舞伎、また、茶の湯、襖絵、屏風絵、光悦・光琳の硯箱、鳥羽僧正の鳥獣戯画、雪舟の墨絵などの論評がある。

自然との共生のヒント
 以上これまでの論考で、『風土』が「人間存在の構造機構としての風土性」を、トータルな視点でとらえた人間と民族と文化のユニークな試みであることを明らかにしてきた。
 風土論が完全な形を整えたものでないことは、和辻自身が論文中で付言している。現在の観点と較べて色あせているところもある。そもそも、南北アメリカ大陸に関する記述はほぼ皆無、オーストラリアに至ってはいうまでもない。しかしながら、90年後の今も和辻風土論が、色々な面で生きていることも否定できない。
 ヨーロッパの風土類型に大部のページがさかれているのは当然である。草稿の組まれた昭和3〜4年の世界は、ヨーロッパを中心にリードされていた。ヨーロッパ文化が人類史の先頭に立っていた事実と、そのど真ん中に和辻の留学が挿入されていたのである。
 本書を読み進みながら浮かんだのは、比較論のベストセラー、イザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』や李御寧『「縮み」志向の日本人』また、陳舜臣の『日本人と中国人』などである。それ以上に専門的な研究としては、梅棹忠夫の『文明の生態史観』があった。和辻風土論は、発表当時から優れた比較文化論として注目され、その影響はフランスの地理学者オーギュスタン・ベルクの「風土学序説」を生み、各種の文化論・風土論を促した。
 『風土』の発刊後、風土論は運命論あるいは決定論になってしまうのでは、という疑問や批評が投げかけられた。風土という類型化された枠組みで、人間存在が決定づけられてしまうのかという問いかけで、難しい課題である。それに対しては、「我々はかかる風土に生まれたという宿命の意義を悟り、それを愛しなければならぬ」としながらも、さらに示唆的に「それ(宿命)を止揚しつつ生かせることによって他国民のなし得ざる特殊なものを人類の文化に貢献することはできるであろう」と述べている。
 これは決定論を穏やかに包みこんだ言葉ともとれそうで、別の一節でも同旨のことを表白した。「牧場的風土においては理性の光が最も輝きいで、モンスーン的風土においては感情的洗練が最もよく自覚せられる。…それならば…理性の光の最も輝くところから己の理性の開発を学び、感情的洗練の最もよく実現せられるところから己の感情の洗練を習うべきではなかろうか。風土の限定が諸国民をしてそれぞれに異なった方面に長所を持たしめたとすれば、ちょうどその点において我々はまた己れの短所を自覚せしめられ、互いに学び得るに至るのである」と。
 二度の世界大戦を経験した20世紀は、地球的な規模での自然破壊が世界中で繰り広げられた世紀でもあった。そうした過去の反省もあって、21世紀の今、人間と自然との共生が人類の本来あるべき姿として叫ばれている。この今日的課題に、和辻哲郎の「風土」論は、新たな発見につながる何らかのヒントになるのではないか。
(2020年6月10日付764号)