コロナ後の「新しい生活」と宗教

空海の真言密教から大師信仰へ

弘法大師が入定している高野山奥之院

 緊急事態宣言が解除され、新型コロナウイルスと共存する「新しい生活」が始まった。後の時代に、令和2年(2020)に時代が変わったと世界史に記されるかもしれない。では宗教はどう変わるのか。薬師寺の大谷徹奘(てつじょう)執事長は「自粛は、訓練を重ね、新しい生き方を身につける好機」だと言う(読売新聞5月31日付)。つまり、人間の内面に目を向けよということ。そこで、真言密教を開き、『秘密曼荼羅十住心論』で当時の代表的な思想を見事に体系化した空海を手掛かりに考えてみた。(多田則明)

 宗教学者の島田裕巳は日本仏教は五層で発展したとする(『教養としての世界宗教史』宝島社)。基層にあるのが飛鳥時代から奈良時代にかけての南都六宗(三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗)で、その上に大乗仏教の代表的経典である法華経に基づく法華宗が取り入れられ、次に平安時代初期に空海らが唐から持ち帰った密教が仏教界を席巻する。その上に来るのが浄土思想で、法然は念仏以外の行を必要としない「専修念仏」を説き、親鸞がそれを徹底させた。最後の層が禅宗で、鎌倉時代以降、弾圧で仏教が衰退した中国から多くの僧が渡来し、貴族に代わって政権を担うようになった武士に受け入れられたことから、広く日本に定着していった。
 信者の数では浄土真宗が、寺の数では曹洞宗が最も多いとされるが、密教が重要なのは、古代インドで生まれた仏教の最終ランナーだからである。紀元前500年頃に生まれたとされる釈迦に始まる初期仏教から後に発展した大乗仏教、さらにインド土着のヒンドゥー教まで取り入れている。
 初期仏教では自身の悟りを得、解脱することが最高目的のため、出家して修行するのが基本で、衣食住はもっぱら布施に頼っていた。個人の精神的な救いが優先され、社会とのかかわりは最小限とされたのである。それが、布教の拡大により社会との関係が無視できなくなったことから、1世紀ころ、大衆の救いを優先する大乗仏教が生まれる。その最終形態が密教で、中国を経て日本に伝えられた。もう一つチベットに伝わった密教もある。
 密教の最大の特徴は、宇宙そのものを人格的に具象した大日如来との一体化を説いたこと。それが生身のまま仏になる即身成仏で、死後の成仏を目指す浄土教とは対照的である。
 松岡正剛は「仏教とはせんじつめればいかに意識をコントロールできるかという点にかかっている」(『空海の夢』春秋社)とし、マクロコスモスの梵(宇宙)とミクロコスモスの我の「梵我一如」が仏教以前のヒンドゥイズムの構想で、釈迦は没我によりそれを果たそうとしたとする。
 しかし、社会において我を取り除くことは不可能で、恵果から灌頂を受け、両部曼荼羅を持ち帰った空海は、神道が根付く日本的風土の中で即身成仏の理論と修法を確立したのである。インド的、中国的風土では不可能だった理想が、日本で初めて実現したとも言えよう。松岡は空海の「内と外」に対する絶妙な感覚を高く評価し、それは恵果の「内外の一対」という感覚を学び、規範としたからだとする。
 『空海と霊界めぐり伝説』(角川選書)を書いた上垣内憲一・前大妻女子大学教授に中国で密教が滅んだ原因を聞いたところ、「密教は法具にお金がかかるため、権力者の保護を受けないと存続できない」とのことだった。確かに、中国や朝鮮で残ったのは浄土宗と禅宗が混合した、あまりお金のかからない仏教である。恵果に早く日本に帰り、密教を広めるよう諭された空海も、朝廷に取り入れられる道を秘かに探っていたのであろう。
 さらに空海にとって宇宙には社会や統治機構も含まれ、それとの一体化を自らに課したに違いない。そのため唐では仏教だけでなく、土木や建築技術、水銀の精錬法なども学んだとされる。それらは社会や国と一体化するために必要な技法であった。満濃池の修築なども、内面の宗教的価値だけではなく、具体的な技術で臨んだから成功したのである。
 都を護る東寺と、修行の道場としての高野山を残し、宮中で初めて後七日御修法を修した835年に空海は没し、921年に醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られた。空海は生きて各地を訪れ、衆生の救済に尽くしているとの弘法大師信仰が生まれ、逝去ではなく入定とされ、今も毎日食事が供されている。優れた宗教も大衆の支持がないと存続できない。日本の宗教現象としては、空海の思想よりも大師信仰の展開が重要であろう。(3面に続く)
(2020年6月10日付764号)