シンポ「鈴木大拙の思想と史的意義」

「主人公として生きよ」/竹村東洋大学学長が講演

東洋大学
シンポジウムの様子東洋大学シンポジウムの様子

 2月16日、東京都文京区の東洋大学でシンポジウム「鈴木大拙の思想とその史的意義」が、国際禅研究プロジェクト(伊吹敦研究代表者)と東洋大学東洋学研究所の共催で開催された。全国から研究者が約70人集まり、竹村牧男・東洋大学学長の講演の後、飯島孝良・明治大学文学部講師(親鸞仏教センター嘱託研究員)、伊吹敦・東洋大学文学部教授、井上克人・関西大学名誉教授の研究発表が行われ、活発な質疑応答があった。
 竹村学長は「鈴木大拙における華厳思想と戦後の日本社会」と題し講演した。
 「大拙は戦前の日本を否定し、自主的、主体的に考えることの大切さを説いた。大拙は、人が立てばいずれは己も立つようになるとし、『孔子は己達せんと欲して人を達すとも言い、また己に克ちて礼を履むとも言う。いずれも他の人格を尊重する義に他ならぬのである』『自由と自主とはともに全体を否定しない。何となれば個と全、全と個とは重重無人の法界における一連環だからである』と語った。全は『一切』のことで、大拙にとっての極楽浄土は、平和でクリエイティブに生活し、他を尊重する世界である。
 世界を体験した大拙は、同時に日本文化、東洋文化で世界に貢献し、新しい地球社会の秩序を発信したいと考えていた。大拙の考えは、皆が主体性をもち、主人公として生き、そして他者を尊重しなければいけないというもので、今の社会はまだ不足である」
 続いて、飯島講師は「大拙における禅思想史観と『日本』の位置─戦中から戦後の看方を軸に考える─」を発表した。
 「大拙のいう『禅』は、『日本精神の中へも、支那精神の中へも、又印度精神の中へも這入り得るもの』で、あくまで融通無碍な本質を有している。彼は1942年の『東洋的一』などで繰り返し言及しているが、『日本精神』に『包含的な、寛容的な、自由な』面を見出そうとしていた。日本人と日本文化の特徴に『摂取性』があり、それを批判的に継承し、活用するのが彼の強調点だ。ここで『一』は『無分別』で、『二』は二元論的、対立的な構造の『分別』ととらえた。近代化に主客分離の西欧合理主義を受容した日本は、科学的に発展し、その中で『一』がもう一度比較されるべきだというのが大拙の論点だ」
 次に伊吹教授が「鈴木大拙はどうして初期禅宗史研究を始めたか」と題し発表した。
 「鈴木大拙の生涯を5期に分けると、初期禅宗史研究を行ったのは第2期(1914─32)と、第3期(1932─45)になる。従来は禅思想にしか関心を示さなかった大拙が禅宗史に関心を持つようになったのは、境野黄洋による中国仏教史研究の創始・発展と、松本文三郎により禅宗史が研究対象とされたことが背景にあった。1920年過ぎから、大拙は禅宗史に対する自らの立場を確立し、仏教史家らを批判するようになった。彼が問題視したのは、達磨と慧能、そして僧璨(そうさん)の伝記についてである。
 境野は1926年、『大乗禅』誌上に『禅宗史上の一疑問』を発表し、禅宗第三祖としての僧璨の実在は認められないと主張した。大拙はこれに反発し、『第三祖の僧璨について』を『禅宗』誌上に発表した。大拙の主張は『三祖僧璨が実在しなかったら、禅師による弟子の印証がなかったことになるから、三祖僧璨は実在したはず』というもので、歴史が信仰から分離されていない立場が明確に見える。後に敦煌文書等の新出文献に取り組むようになったのも、禅の伝統説を死守する根拠として用いようとしたからに他ならない」
 最後に井上名誉教授が「鈴木大拙の思想へ/思想から─般若即非の真如観─」を発表。
 「大拙は、敗戦した日本には、世界に向けて発信するべき文化があるはずで、それが東アジアの日本人に課された使命だと自覚していた。大拙は、『西洋』の特性は『分けて制する』で、それに対して『東洋』は大乗仏教、根本仏教の般若智による『無分別智』で、鎌倉時代の禅と浄土系思想によって初めて『日本的霊性』になったという」
(2020年3月10日付761号)