栄西(1)/日本臨済宗の開祖
岡山宗教散歩(8)
郷土史研究家 山田良三
日本臨済宗の開祖栄西は、浄土宗の開祖法然とともに鎌倉仏教の創始者の一人で、岡山が生んだ偉大な宗教家の一人です。栄西は茶祖としても知られ、岡山では毎年、後楽園での茶会など栄西を顕彰する茶会や行事が数多く開催されています。
栄西は保延7年(1141)吉備津宮の権禰宜賀陽貞遠の子として誕生、母親は田氏と元亨釈書などには記録されています。賀陽家は代々吉備津宮の神官の家系で、備中国の賀陽郡一帯を支配した豪族でした。田氏とは田使(たつかい)、つまり中央から地方に派遣された田の管理者で、平安時代に賀陽郡から備前の御津郡一帯を支配した難波氏でしょう。吉備津神社はもとは吉備国の総鎮守、三国に分かれてからは備中国一宮とされた旧官幣中社で、本殿は国宝に指定されています。
同社のすぐ近くに「栄西禅師誕生地」と銘した小公園があります。もとは賀陽家の末裔が庵を設けていた土地を総社市の宝福寺が譲りうけ所管し、その後建仁寺に寄進され、昭和47年に地元有志の手で茶碗型の顕彰碑が建立されていました。その後、平成26年の800年大遠忌に際して、建仁寺と栄西禅師賛仰会と地元有志により、禅庭園風に改修、整備されました。
去る7月5日、吉備津神社に参拝し、当地を訪ねると、公園を整備している方がいました。話してみると近くに住む藤井直樹さんで、地元の有志で庭の草取りや水の管理をし、栄西禅師を顕彰する様々な行事なども行い、栄西禅師の略歴を書いたチラシを来訪者に渡しているとのことです。
話しているうちに「今日が栄西禅師の命日ですから!」と言われ、平成5年前後の頃、毎年、栄西禅師の命日のこの時期に合わせて顕彰碑の参拝と行事をし、当時雑草が生い茂っていた庭の草取りなどしていたのを思い出しました。藤井さんにお会いしたのは栄西禅師の導きかもしれません。
禅庭風の公園に整備したのは、京都で禅庭を手掛けている高名な庭師で、藤井さんら地元有志の方たちが、毎日のように草むしりや水やりをして、とても奇麗に維持されています。顕彰碑の石は賀陽家の庵の庭にあったものだそうです。
公園の近くの小学校の校庭に妹尾兼安(せのおかねやす)の顕彰碑があります。平家方で活躍した武将で、この地域一帯に用水を引くなど施政にも優れていました。井山宝福寺の近くには妹尾兼安を祀る井神社(兼安神社)もあります。
栄西禅師の活躍した時代、西国は平家方の武将が多く、吉備津宮の賀陽家や母方の難波家も平家方についていました。栄西禅師の修行や渡宋に当たっては平家のバックアップがあったと思われます。吉備津神社の近くに賀陽家館跡もあります。難波氏の頭領宅は吉備津宮に近い西辛川(にしからかわ)にありました。律令体制下で児島屯倉に田使(田令)として派遣され、その後、備前備中各地の白猪屯倉に派遣された一族です。私の故郷の児島にも難波姓は多くあり、今でも多いのが旧賀陽郡一帯です。
「栄西禅師誕生地」の小公園は、栄西禅師が生まれた賀陽家の一族の館跡で、「実際に栄西禅師が生まれたところは定かではないが縁の地として…」と顕彰碑の説明文にありました。
栄西禅師の誕生地には諸説ありますが、「竹の荘」旧賀陽町(現吉備中央町上竹)説が有力です。当地に住む郷土史家の芝村哲三氏は『栄西を訪ねて─生誕地と生涯─』(吉備人出版)で、栄西にかかわるあらゆる膨大な資料を検証し、全国の栄西縁の地、更に中国も二度訪ねて検証し、地元の「栄西は竹の荘で誕生した」との伝承を確信されています。竹の荘は当時難波氏の支配地でしたので十分可能性があるでしょう。
芝村氏は商店を営む傍ら旧賀陽町の歴史の研究や顕彰に取り組み、顕彰保存会会長を務めています。芝村氏は、私が事務局長を務めている岡山歴史研究会の顧問でもあります。先日お会いしたところ、94歳を迎えお元気に研究や執筆を熱心にされていました。
(2019年8月10日付754号掲載)