『楡家の人びと』 北杜夫(1927〜2011)

文学でたどる日本の近現代(1)
在米文芸評論家 伊藤武司

 北杜夫は多面的な顔をもつ作家である。芥川賞を射止めた時の顔は本格的な純文学の顔、その後の「マンボウ」シリーズは、動植物などの該博な知識をもりこんだ随筆群。また、ペーソスとユーモアあふれる大人向けの童話シリーズやSF調の作品も少なくない。こうした多様性の故に、硬派の純文学者ととらえたり、大衆的な作風の作家とみなすこともできる。そうした北の両方の性質を併せもつ代表作が大河小説『楡家の人びと』である。
 発刊後、三島由紀夫からは戦後のもっとも重要な著作の一つと激賞された。日本が近代国家を目指して以来、島崎藤村や志賀直哉らが国民的・市民的レベルでの小説を発表してきた。北杜夫のこの作品もそうした評価に値する作品と言えよう。もちろん、市民意識が今日の社会にどこまで成熟しているかという正確さを期する論議は残るにしても、市民という一般概念は、一応現社会で認知されているだろう。
 作中人物は長編だけに多士済々である。北杜夫自身の家族をモデルとし、祖父や父親を、さらに母親や叔母や兄弟姉妹などの親族をくりだし、それぞれの人生を丁寧に書き上げた。
 楡一族三代は、明治・大正・昭和と続く半世紀の間、戦争や事件などの時代的運命と共に生きていった。この小説は、変転する近代日本の光と影を背負いながら、彼らをとりまく波乱にみちた長大な物語である。
 第一章における個性的で存在感あふれる主人公の人物造形と描写は、作者の筆力が如何なく発揮され群を抜いて面白い。この小説を成功に導いた最大の要は、一代で「楡脳病院」を築いてゆく楡喜一郎に求められるだろう。
 院長の風貌はといえば、大正のハイカラ好みで染め上げたような洋行帰りの紳士。しかもその俗物性まるだしの人物からかもしだされる言葉尻や行動が、北杜夫の手にかかると何とも憎めない人物に変貌してしまう。このような筆法で読者の関心をストーリーの流れへグイグイと引っ張っていくのである。院長の家族を見渡すとその全貌が鳥瞰できる。
 何事においても古色蒼然たる院長夫人の立ち居振る舞い、経営が次第に傾く病院を必死に守ろうと意気込む勝気で誇り高い長女の龍子、美貌だが薄幸の人生を背負ってしまう次女聖子、おてんばでどこまでも庶民的な三女桃子、飛行機の趣味に偏執する長男欧州、強迫観念症にとりつかれた次男米国、関取になる養子の蔵王山など、特徴的な個性群が確かな筆致で描出されている。
 楡家三代をつうじた一族全体に共通する一点は、病院自体にほかならない。すなわち、7つの尖塔と円柱がそそりたち、大時計を備えた竜宮城のような摩訶不思議な大建造物、青山の「楡脳病科病院」がそれである。ここを舞台に、登場人物たちの変化に富んだ人生模様が、時代に底流する情緒や精神などを織り込みながら再現されてゆく。
 さらに病院につらなる個性あふれる一群の人びとも魅せる。院長の威光をかさに行動する院代先生。病院50周年に、孤軍奮闘する院代先生の様は、笑いをさそうことうけあいである。
 新聞記事を朗々と読み上げる患者のビリケンさん、無為のやさしさをふりまいている下田の婆や、書生の熊五郎、賄い場の伊助じいさん、院長一家の旧知・文房具店青雲堂夫婦などが小説に花を添えている。
 総称としての印象は、各々が憎めない善人として描かれ、少なくとも悪意をもたない人物として表現されている。作者はこうした人びとを歴史の流れの中にはめこみ、各自の人生を愛情をこめて凝視しているのである。
 さて二章、三章になると次の世代の活躍となる。作者は、楡病院の興隆と没落までを克明に描いている。龍子の夫徹吉は、喜一郎院長から病院を引き継いだ学究肌の二代目である。徹吉は北杜夫の実父、歌人の斎藤茂吉がモデルである。徹吉夫婦には俊一、周治、藍子の三人の子供がいる。ちなみに俊一は作者の実兄・斎藤茂太がモデルだといわれている。
 長編小説『楡家の人びと』の構成上の特徴を述べておこう。ストーリーの合間に時代の変動から起きた出来事や戦争、たとえば、関東大震災の惨状、支那事変から真珠湾奇襲、硫黄島玉砕、東京大空襲、原爆投下などをパノラマ風に並べている点である。楡一族と彼らをとりまく人びとの日常が、流動する歴史のさ中で繰り広げられているのである。
 その中で印象に残る文章がある。戦争の暗い影がしのびよる以前の、大正デモクラシーの残照が未だ残る箱根で、子供たちが避暑を過ごす会話や平和な光景にはノスタルジックな気分にさせられる。また哀感につまされるひとコマもある。日米両軍が激突した珊瑚海戦の後、藍子の恋人城木は、南洋の雄大な夕映えを観ながら「自然は残酷なまでに美しい」とつぶやく。その後、軍医として乗り込んだ空母が撃沈されて彼は戦死してしまうのである。
 長編のストーリーを忍耐強く最後まで練り上げる作者のエネルギーは、終始平明でぶれることはない。近代の私小説的文芸に慣らされてきた眼には、北杜夫の作風はどこまでも爽快で明るい。作中の登場人物たちの喜怒哀楽の人間模様や近代日本がたどった歴史がみごとに融合され、読者はいながらにして、激動の50年を疑似体験することになるわけである。日本人とは一体何者なのかという感慨が呼び覚まされる名作である。
(2019年8月10日754号掲載)