神なき民主主義と新世紀の日本

追悼・勝田吉太郎京大名誉教授 
大阪国際大学名誉教授・京都大学法学博士・岡本幸治

2019年8月10日付 754号

 京大名誉教授の勝田吉太郎先生が7月に亡くなられた。「偲ぶ会」が9月1日に、珍しく京大学内で行われる。先生の主要著作は関西の代表的な学術出版社であるミネルヴァ書房から1992年に計8巻にまとめられて出版され、各巻末に収録された著作などの「解説」がある。興味深いのは川端香男里東大名誉教授をはじめ西部邁、碧海純一、五木寛之など東京系の解説者がそれを担当していることである。むろん直弟子である木村雅昭京大教授も入っているが、私のような外者が第7巻の「解説」を担当したことについては、いささか説明を加えておきたい。

戦後日本の弛緩を批判
 私は京大法学部の学生を6年も務めた。法学部の講義には殆ど出席せず真面目学生のノートを借りて、試験直前に何とか合格できるだけの勉強しかしなかった落第生である。ある時旧三高・一高のスポーツ交流の伝統を引き継いで毎年開催されていた京大・東大の野球交流戦を見て、応援団が東大にはあるのに京大にはないことを嘆いた熱血児がいた。私はアルバイトもあれこれしていた貧乏学生であったが、彼に三顧の礼を尽くされて京大応援団創設に参加し、活動に必要な資金作りにエネルギーを費やした。
 卒業後は三井物産に入ったが、仕事相手の八幡製鉄の連中に元「官営国策会社」の役人気質が抜けない者が多く、見切りをつけて退社し京都に舞い戻ってきた。その時、たまたま縁のあった台湾の京大大学院留学生から、勝田教授の演習が面白いという話を聞いて、聴講生として大学院のゼミに加わった。
 浪人生活3年目に、学部時代の恩師大石義雄先生から、京都市内に近く新大学を作るので、法学部で労働法の教員にならないかという有り難いお話があったが、お断りした。私は大学の先生になりたいと思ったことは全くない。横文字を縦にして解説したり、ミミズのはうような古文書を読んだりして何が面白いかという勝手な偏見を、貧乏職人の子である私は抱いていたのだ。
 ところがその後また電話があり政治学担当ならどうかというお話である。恩師の重なるご配慮に感激してこのたびはお受けしたが、その背後には、政治系教員の推薦に関わっておられた勝田先生のご配慮があったらしい。こんな次第で僕はなりたいと思ったことのない大学教員になったのだ。
 その後大阪府立大学、愛媛大学に転勤するときも、先生の推薦を頂いた。先生は数十人の大学院指導生を各地の大学教員に推薦しておられる。大学教員は研究教育が本職で、学生の就職まで面倒を見る義務はない。ところが、私のような学業成績不良の変わり者の面倒まで見て頂いたのである。
 私は愛媛大学に移ってから、ひ弱になりつつある学生を心身共に鍛錬するために、毎年冬休みにインドに連れて行った。先生にその土産話をすると、大変に興味を持って熱心にあれこれ質問されたものである。中国・韓国旅行についても同様であった。
 時事問題を扱う出版社や雑誌社は東京に集中しているので、関西などの大学教授が時事問題に関心を深めても発表の場は少ない。しかし著作集第8巻巻末の著作一覧に示されているように、大著『近代ロシア政治思想史』の刊行以来、深い思想的分析を根底にして時代の趨勢に対峙された先生は、ドストエフスキーが提起した「神なき人間中心主義が直面するニヒリズム」という近代社会の深刻な問題提起に深い共感を覚えられた。
 戦後日本が直面した諸問題にいかに向かい合うべきかについて、哲学的な考察に立脚した指導者が暁天の星のごとく稀であることを知り、「豊満ゆえの精神の弛緩」がじわじわと浸透しつつあった戦後日本の根本問題に対して、1970年代以降に大胆な問題提起や批判を開始されたのだ。本稿の表題「神なき民主主義」もその中心課題の一つなのである。

学ぶべき示唆と教訓
 意識の高い読者に注目して、多くの一般読者向きの単行本も刊行された。卓越した保守政治家の一人に数えられる中曽根康弘元首相なども、世間には殆ど知られていないがわざわざ親書を寄せただけでなく、直接会って色々教えを請うている。
 敗戦後約7年もの間米国の占領下に置かれて以来の日本は、今や新世紀の大きな政治的変動期に直面しつつある。戦争の勝者から頂戴した(押しつけられた)われらの「敗戦民主主義憲法」も、抜本的な再検討の時期に入っていることは明白だ。その問題提起の先駆者であった勝田教授の著述からわれらが学ぶべき示唆と教訓は、未だに色褪せてはいないのである。