スーフィズムの系譜
カイロで考えたイスラム(17)
在カイロ・ジャーナリスト 鈴木真吉
第二代カリフ・マンスールによって762年に新首都として定められたバグダッドは、大サラセン帝国の栄誉を一つに集め、地上楽園とまで称えられ、イスラム諸民族の羨望の的だった。分けても「千夜一夜物語」で有名なハールーン・ラシードから次のマアムーンに続く文化奨励政策によって、バグダッドは学問、芸術の東方世界最大の中心地となり、名だたる哲学者や神学者、医学者、法学者、詩人、文人、文法家などが諸国から集まり、能力と知識を提供し合ったという。
バグダッドには早くから優秀なスーフィーたちも移り住み、活動していたが、中でもバグダッド派の始祖と仰がれるに至ったのは、「神の愛に酔った人」マアルーフ・カルヒー(没年815?)だ。カルヒーは「人間は、人間が神を愛すると思っているが、実はそれは人間の働きではなく、それ自身既に神の恩寵である」と説いた。
カルヒーの系統を引く無数の神秘家のうち、特に直門の高弟がサリー・サカティーとバスラ出身のハーリス・ムハースィービーだ。サリー・サカティーは、神秘道究極の境地は、神の「美」を直視し、合一することにあると考え、「愛」の完成は霊魂が愛の対象である神に向かって、「汝即我」と言い得るときに遂げられると主張した。
ハーリス・ムハースィービーは、人間の霊魂を上下に分け、上部は肉体と結合する以前から存在し、英知を根本原理とする「精神」で、その中核に密かな神像の宿ともいうべき意識の聖なる「秘所」があり、下部は肉体の原理であらゆる煩悩の源となる「自我」で、人間の心に起こる邪悪な思いは全てここから発すると説いた。
それ故、修道を志す者の最高目標は、「自我」を克服して「精神」を桎梏から解放し、自由で清浄な本来の姿に返し、ついには聖なる故郷に還元消融させることにあるとする。しかし「自我」の裡には頑固な魔力が潜んでいて、人が一瞬たりとも内省を怠るならば、悪魔はたちまち出現し、心内に侵入し、執拗に人を悪に引き込もうとするから、修道者は瞬時も休むことなく内省の眼を自分の意識に向け、我とわが「自我」の働きを「監視審問」し、抑制し、最後には自我の営みを滅却するよう努めなければならない、と主張した。
ハーリス・ムハースィービーを通過して、いよいよ初期スーフィズムの最高峰をなす、3人の傑出した神秘家、ジュナイドとバスターミー、ハッラージに到達する。
ジュナイドにとってスーフィズムとは、自己を死に切り、神に生きることであり、人は修道によって自我を殺し、神の下に底深く沈潜し、聖なる「愛」に導かれて、新しい命に生まれ変わらねばならない、とした。この「新生」において、人間はあらゆる人間的属性を脱却し、新たに「愛する人(神)」の諸属性を受け、初めて修道者は「もはや自分が生きているのではなく、神が我が内にあって生き、我を通じて働かれる」という次元に躍り出る、と説いた。このようにジュナイドは、内面的神秘主義的体験と外面的宗教法との見事なバランスを保つ柔軟な心を持ち合わせていたとされる。人々はこの点で、ジュナイド(没年910)を「醒めた人」と呼び、後述するバスターミーを「陶酔の人」と呼んだ。
バスターミー(没年874)の説いた要点は、「愛」の方向だった。スーフィズムの母体となったシリア神秘主義では、修道者を導いて神に至らせる「愛」は、人間の神に対する愛、人間の側から神に向かって抱く情熱だった。愛の主体は人間であり、神は愛の対象だったが、バスターミーは、体験からまさに正反対だという。告白によると、自分が神を愛していると考えていたが、これは大変な思い違いで、逆に神が自分を愛していたのだと気付いたという。人が神を求めるのではなく、神が人を求め、引き寄せているのだ、と。
神秘道の究極は、目も眩む光が突然輝き、心の壁を破って流れ込んで来て、意識は跡形もなく消え失せ、「人は神になる」という。神人不可分の境地に恍惚と我を忘れる「陶酔の人」がバスターミーだった。彼はこの神秘道最高最終の境地を「消滅境(ファナー)」と呼んだ。
バスターミーの悟りをさらに突き詰め、「我・即・真実性(神)」と断言、人間が完全に変質し、そのまま永遠の太源(神)に化融し、神性と人性が合一、融合する境地にまで高めたのが、ハッラージ(没年922)とされる。
ハッラージの「合一」観には、キリスト教の「受肉」の概念の影響があったとの説もあるという。イスラム教においてはイエスは預言者の一人にすぎないことから、人性が神性の中に完全に融け入るというハッラージの考えは異端とみなされ、ついに告発され、死刑を宣告され、バグダッドの刑場で十字架にはりつけられた。(イスラム暦309年)
スーフィズムは神との合一を目指して各種の修行を行ったことから、イスラム法を軽視したり、中には公然と飲酒や同性愛に走る人々もいた。そのため体制的なウラマー(イスラム法学者)たちと対立したが、両者の橋渡しをしたのが、イスラム中興の祖といわれるガザーリー(1058─1111)とされる。
ガザーリーは当時の最高学府ニザーミーヤの教授で、スンニ派学問世界の最高権威でもあったが、突如、懐疑に陥り、教授を辞職し、真理を求めて各地を放浪、スーフィーとしての直接体験の必要性を悟ることにより、彼の神学にスーフィズムを取り入れた。
その結果、ウラマーとスーフィーは融和し、青柳かおる氏によると11世紀までにスーフィズムは民衆に広まり、13世紀には完全に普及、ほとんどのウラマーたちがスーフィズムを容認するようになったという。
スーフィズムが公認された12─13世紀にはスーフィー教団として発展し、カーディリー教団やメヴレヴィー教団、リファーイー教団などが有名になり、現在に至っている。13世紀以降は、ほとんどのイスラム教徒がいずれかの教団に所属し、信仰の内面はスーフィー教団から、信仰の外面は法学派によって支えられるようになった。
スーフィズムは、どの宗教も神との合一という同じ目標を持っていると考え、鷹揚なことから他宗教に非常に寛容で、キリスト教や仏教、ヒンズー教などの外面はあまり気にしていない。また、多くの国で聖者廟への参詣が熱心に行われている。
青柳氏は、「とはいえ、現在のスーフィズムは、社会・経済・政治の大きな勢力となっていない」と指摘している。
エジプトやトルコなどでは観光客にスーフィーダンスが、ベリーダンスと共に伝統的な文化の一部として紹介されている。
(2019年7月10日付753号)