狂信と信仰の間の十字軍運動

キリスト教で読み解くヨーロッパ史(6)
宗教研究家 橋本雄

十字軍の遺跡
 中東レバノンの首都ベイルートから北へ約30キロのビブロス市。聖書の英語名「バイブル」はこの町の名前ビブロスから来ている。そこにイスラム勢力に占領された聖地エルサレム奪還を目指して、キリスト教徒軍が侵攻した十字軍時代の遺跡が残っている。
 レバノン周辺は十字軍とイスラム勢力の激戦地であった。崩れ落ちた遺跡を見ると歴史の重みを感じ、当時の戦闘の喚声と悲鳴が聞こえるようだ。
 現在はイスラムのモスクとキリスト教会が共存し、美しい海が広がっている。海岸沿いの遊歩道を歩く家族連れを見ると、ひと頃のレバノン内戦などもなかったような感じにもなる。英語のアルファベットもレバノンの文字、旧約聖書の言うカナンの文字である。「聖書とアルファベットの発祥の地」という誇りを、レバノンの人々はよく口にする。
 歴史では、訳も分からない熱情に動かされ、国家や人々がとんでもない方向に動いてしまうことがある。「時代の熱気」「狂気の時代」とでも言おうか、この時もそうであった。
 1095年、ローマ教皇の訴えに応えたフランスの隠者ピエールの呼びかけで、聖地エルサレムの奪回を目指し、4万人とも言われる農民、都市貧民、女子供がエルサレムを目指して歩き出した。おおよそ軍隊と言えない無頼の群衆が、行ったこともないエルサレムまで歩き、見たこともないイスラムの人々を打ち破り、聖地を奪回しようというのである。信仰的熱情だけが彼らの武器であった。
 やがて、食料や武装などの十分な準備もないままに動く集団は、略奪を働く以外にはなくなってしまった。全ては「神が準備する」という安易な信仰があったのかもしれない。「聖戦であるから」と全ての犯罪行為は正当化されたのかもしれない。普通に見れば彼らは野盗の類である。
 結局、彼らはイスラムや他の軍事勢力から殺害されるか奴隷として売られてしまう。これが悲惨な結果に終わった民衆十字軍である。信仰が時として「過激」につながるいい例で、狂信と信仰は違う。

同床異夢の十字軍
 十字軍運動は11世紀から13世紀にかけてヨーロッパ全体を巻き込んだ大騒動(運動)である。セルジュクトルコから圧迫を受けていた東ローマ皇帝が、ローマ教皇に支援を要請したのを契機に始まった。「聖地エルサレム奪還」という支援要請も、皇帝の領土防衛と野心のためであったと研究者は分析している。
 要請を受けたローマ教皇ウルバヌス2世は1095年、クレルモンの宗教会議で聖地奪回を提唱した。「乳と蜜の流れる地」という出エジプト記の一節を使って、「この戦いは神の摂理である」と十字軍遠征をヨーロッパ王侯に呼びかけた。教皇の狙いは東ローマを支援して統一された東西ローマに君臨することが目的であったという。
 王や諸侯は領地の確保か略奪か……。信仰的動機の者もいたとは思うが、十字軍のその後の動きを見ると聖地奪還は二の次であったと言われてもしようがない。全ての当事者が「同床異夢」であった。
 キリスト教はいつからこんなに残虐になったのであろうか。第1回から8回(7回という説もある)まで十字軍が編成されて、一時はエルサレムの奪回にも成功する。その過程で、イスラムのみならずユダヤ教徒や他のキリスト教徒なども攻撃・虐殺され、十字軍の乱暴狼藉は目に余るものがあった。さらには、エルサレム占領後の虐殺や略奪は7日に及び、凄惨を極めたという。
 ヨーロッパ諸王侯の莫大な投資と犠牲にもかかわらず、結局エルサレムはイスラム勢力に奪還されてしまう、その際のアラブの英雄がサラディーンである。十字軍の攻撃に対して、対立するイスラム勢力を纏めて、サラディーンはキリスト教勢力を崩壊させた。イスラム軍の方が十字軍よりよほど規律が取れていたという。
 第4回十字軍は北イタリア・フィレンツェの商人の誘惑によるもので、十字軍も200年の中で変質をとげていた。既に提唱者はこの世を去り、全ての当事者が同床異夢では、十字軍は結局分解してしまう運命だった。
 アミン・マアルーフは『アラブが見た十字軍』(ちくま学芸文庫、2001年)で「キリスト教とイスラム1000年の戦いがここから始まった」と書き、多くの学者もそういう。アラブからは、十字軍はキリスト教軍の侵略であり、降って湧いた災難ということになる。
 十字軍勢力の中心が初期はフランスであったので、彼らは「フランク」と呼んだ。ただ、アラブ(サラセンとも呼ばれた)世界が常に部族対立の状態にあり、効果的に十字軍に対抗できなかったことは無念なことであろう。「十字軍」という言葉自体がアラブの人々には、今でも抵抗感を覚えさせるものとなっている。

十字軍の功罪
 200年にわたる十字軍運動の功罪はなんであろうか。宗教的には、提唱したローマ教皇の権威が大きく失墜した。十字軍に神は働かなかったし、「神が保護してくださらなかった」という教皇への不信感となった。
 政治的には、十字軍派遣により多くの戦費が消費され、多くの諸侯が戦死し封建社会から王権の強化が進行した。そして王権と教皇権の大きな衝突が生まれ、その後の宗教改革の下地ができた。
 文化的には、東方文化に接し多くを学ぶことで、西洋社会はその後のルネサンス(文芸復興)の契機を得た。経済的には、兵士や物資の輸送を担当した北イタリアの商人が、東方貿易で大きく勢力を伸ばすことになる。
 それに対してイスラム側の被害は深刻であった。アミン・マアルーフによれば「ムスリム世界は縮み上がり、過度に過敏に、守勢的に、狭量に」なり、西洋化を拒絶して開花発展から疎外されたという。その思いは今も癒やされ克服されていない。
 マアルーフは、十字軍戦争で「西洋がアラブから学んだのに、アラブは何も西洋から学ばなかった」と書いている。イスラム世界をそうしてしまったキリスト教の罪は重いと言われる所以である。
 ヨーロッパの歴史は戦争の歴史でもある。キリスト教徒がキリスト教徒や異教徒を殺戮してきた歴史である。「汝の敵を愛せよ」「迫害する者のために祈れ」というイエスの言葉がむなしい。
 ローマ教皇庁の歴史も決して誇れるものでない。しかし、様々な問題や課題に直面しながらも、伝統を保持しながら、新たな刷新を繰り返し存続してきた教皇庁の歴史もまた興味深い。カトリック信徒の深い信仰心が教皇庁を支えてきたのであろう。
(2019年3月10日付749号)