法然(3)/法然の漆間家と一族の立石家

岡山宗教散歩(3)
郷土史研究家 山田良三

 誕生寺の本堂の後ろ、法然の父漆間時国と母秦氏君の廟である勢至堂と産湯の井戸に向かう無垢橋のたもとに椋木があります。ここに、椋木に因む法然誕生の奇瑞が記されています。寺伝によれば、二流れの白幡が流れ来て椋の木の梢にかかり、天の奇瑞が現れたそうで、この木は「両幡の椋木」と名付けられました。元の木は朽ち、現在の木はその後植えられたものです。
 二流れの白幡の奇瑞は応神天皇誕生に際して八つの幡が下ったことと同じ深い意味があると、「法然上人行状絵図」などには記されています。元中外日報記者の山田繁夫氏は著書『法然と秦氏』で、「二流れの幡の奇瑞は、二流れのハタを秦氏にさかのぼる父・漆間氏の家系と母・秦氏の家系つまり美作の秦氏系豪族であった両家を見立てた表現であろう」と書いています。
 椋木の先にある片目川の名前の由来は、夜襲をかけた明石定明の片目を少年法然(勢至丸)が射貫き、定明が川で目を洗ってから片目の魚が出現するようになったからと伝わります。この伝承について山田氏は、柳田国男が『論考 片目の魚』で、「片眼の魚にまつわる伝承とたたら鍛冶には深い繋がりがある」としたことから、漆間氏も秦氏など渡来系鍛冶集団との関りがあったのではないかと記しています。かつて中国山地一帯にはたたら鍛冶集団が数多くいて、誕生寺のある久米南町周辺にも多くの鉄滓が残っています。
 漆間家は美作国二宮の大庄屋を務めた立石家と同族です。美作国二宮は津山市二宮の高野神社のあるところで、立石家は豪族で美作の高野神社の神職も務めていました。立石家の本姓は漆島で、宇佐八幡宮の社家であった辛島一族の漆島元邦が封戸郡の立石に居住して立石を名乗り、延喜年間に美作に来住したと伝えられています。立石元邦の長男盛国が二宮の立石家を相続し、次男の盛栄が漆間を名乗って稲岡に居住し、その五代目時国の息子が法然です。
 津山に来た内村鑑三が「法然に学びなさい!」と語ったことは既述しましたが、内村を津山に招いた森本慶三に協力したのが立石家の有力者・立石岐(ちまた)です。立石岐は備中船穂の豪農小野家に生まれ、立石家に養子として入りました。備中の小野家というと金光教教主に手習いなどを教えた小野光右衛門などもいます。算術など学問に優れた家系だったようです。
 立石岐は32歳で二宮村長になると、殖産興業と民権拡張のため同志と共之社を設立、地域産業の振興や自由民権運動に活躍します。養蚕・製糸業を振興し、大正15年には郡是蚕糸・津山分工場を設立しました。鉄道事業にも取り組み、「中国鉄道」の創立に加わり、岡山~津山の鉄道(現JR津山線)建設に貢献しました。作美線(現JR姫新線)建設に際しては自宅の土地を提供しています。JR津山線は今年で開通120年を迎え、今でも重要な交通手段として地元に愛されています。
 岐は同志と「美作自由党」を結成し、板垣退助とも連携して議会開設運動を行い、第1回衆議院選挙に立候補し当選、政治家として活躍します。また、津山女学校や二宮小学校の設立には私有地を提供しています。
 晩年、森本慶三を支援した岐はキリスト教に改宗し、津山基督教会や森本の教育・福祉事業に協力を惜しみませんでした。津山基督教図書館の設立にも貢献し、津山を訪れた内村鑑三を誕生寺に案内しています。立石家はもともと浄土宗で、一族にはキリスト教への改宗に反対する人もいましたが、「自分の改宗は、他力本願を説く法然の志を継ぐものである」と信念を貫き、キリスト教の布教にも努めました。内村鑑三が法然をルターのような改革者として高く評価した背景には、立石岐の存在も否定できません。
 ちなみに浄土宗の宗紋の杏葉は、漆間家の家紋から来ており、立石家の家紋も、立石家が代々社職を務めてきた美作二宮高野神社の社紋も杏葉です。このことからも法然と秦氏の立石家との密接な関係を知ることができます。
(2019年2月10日付748号掲載)