合理主義的宗派とその反動
カイロで考えたイスラム(12)
在カイロ・ジャーナリスト 鈴木真吉
ムアタズィラ派
イスラム教が予定論をめぐりいくつかの派に分かれ、神の予定と人間の自由、信仰と行為などについて論じているうちに、合理主義の影響を受けたムアタズィラ派が、アッバス朝の前期の8世紀前半、イラクのバスラで創始された。当時、イスラム界を謳歌した合理主義の最も顕著な現れで、カリフ・マアムーンは同派の教義を公認する法令を発布した。イスラム教において最初に「理性」を真理の標準として認め、かつその絶対的権威を確立したとされるムアタズィラ派は、6つの分派を包括する神学上の強大学派となる。
それまで、真理といえば神の啓示と預言者の言行によるほか到達する道がなかったのだが、同派によって初めて理性の自律が認められ、イスラム思想が哲学的思索の道に大きく踏み出すことになった。真理はコーランとスンナ以外にもあり、ギリシャ思想やペルシャ思想、キリスト教、ユダヤ教など何であれ、理性が正しく行使されるところに真理はあるとした。かくして、イスラム以外の思想伝統にも真理が探求されるようになったのである。
ムアタズィラ派の最も根本的なテーゼは、彼らが自分自身を「正義と(神の)唯一性の主唱者」と称していたことからも正義である。彼らの言う「正義」とは神の正義で、人間の倫理ではなく神の倫理の主張である。
善行にせよ悪行にせよ行為を創造するのは人間自身で、理性に照らし、人はこの世で為した善悪に従い、来世において賞や罰を受ける。こう考えることにより初めて、神は悪や不正、不信仰、宗法違犯を完全に超越したものと理解される。なぜなら、もし悪を創造したのも神だとすれば、神は悪にもなってしまうからだ。神は正しいことのみを創造するからこそ正義なのである。
結局、ムアタズィラ派は、人間の行為は全て人間に帰するのであるから、人間は神と並んで第二の創造主となるとし、予定論を排することになった。
コーランには頻繁に「神は人間にいささかも不当の事をし給うことはない。ただ人間が自分自身に対して不当な事をするだけのことだ」とある。神は決して不当な事はしないので、完全に正義の神である。それ故、ムアタズィラ派は自らを「正義の主唱者」と呼び、自らを神の正義を弁護する者とした。
このような考え方は「とりなし」を認めない。イスラム教徒には、最後の審判の時、ムハンマドが信徒のために神にとりなし、罪を犯したイスラム教徒の罰を出来るだけ軽くしてくれる、という信仰があるのだが、ムアタズィラ派はこれを完全に否定する。自ら選んで悪行をした者が地獄の火に焼かれるのは当然で、これを預言者が救うことはあるはずがないと主張したのである。
もう一つムアタズィラ派の思想の重要な点は、神を人間的に表象することに徹頭徹尾反対したことにある。コーランに描かれたありありと生きた神としてのアッラーは、粉砕されてしまった。
彼らは、人間的な表現はアレゴリー(寓意)にすぎないとし、例えば、アッラーの手は惜しみなく与えること、アッラーの顔は知識を表すものと解釈した。コーランでは、神は大空に拡がる玉座に腰かけているが、これも比喩と考えた。スンナ派(正統派)では、正しい信徒は来世において、目のあたりに神を見ると言われているが、ムアタズィラ派はこれを否定した。
ムアタズィラ派の神の義に関する議論は、神の本質とその属性の問題に向かう。神は耳敏く、目鋭く、智慧あり、大能あり、無始、無終、無限で永遠、大慈大悲、義、不変など99の属性があるとされた。また、言葉も属性の一つであることから、イスラム教徒にとって神の言葉であるコーランは、他の被造物と等しく神によって創造されたものであるとする「コーラン創造説」を主張するようになった。
このような合理主義に対する反動の先頭に立ったのが、40歳までムアタズィラ派の大学者ジュッバーイの高弟として、学識を天下に輝かせていたアシュアリーである。
アシュアリー派
アッバス朝のカリフ・マアムーンは、哲学を愛する理性第一主義の人で、ムアタズィラ派の教義を公認し、民衆に強制したのだが、一般の民衆は保守的で、上から強要される合理主義的神学に反発した。民衆の不満を背景に、敢然と一人で朝廷に背いたのがイスラム法学4大学派の1つ、ハンバル派の創始者イブン・ハンバルである。彼は「コーランに還れ」「預言者の慣行(ハディース)に還れ」と叫び、コーランの遂字的解釈を主張。迫害され投獄、拷問されても一歩も譲らなかった。
しかし、ひとたび合理主義を通過した神学は昔のままの信仰には満足できない。ハンバルの精神に基づきながらも、思弁神学的方法を活用して宗教改革を行ったのがアシュアリーである。
843年、イラク南東部のバスラに生まれたアシュアリーは、ムアタズィラ派の立役者ジュッバーイに師事していたが、40歳にして同派を去り、独自の説を立てた。彼が力説したのは「コーランの章句は文字通りに解釈しなければならぬ」で、神が人間のように書かれていても、寓意的に解釈してはならないとした。
アシュアリーは、まずムアタズィラ派など自説に反対する学派を、次の点で間違いだとした。
第一に、神が人の目に見えることはハディースにあるのに、それを否定したこと。第二に、ムハンマドは最後の審判の時、信徒のためにとりなしをするというイスラム古来の信仰を否定したこと。第三に、信仰のない人が死後、墓中で罰を受け苦しめられることはないとしたこと。第四に、コーランは新しく創造されたもので人間の言葉にすぎないとしたこと。
第五に、悪は人間が創造するもので神の業ではなく、善は神が、悪は悪魔が創造するとしたこと。これはゾロアスター教のような二元論である。第六に、この世には神の意志が及ばぬものがあり、神が欲しても起こらないこともあれば、神が欲しないのに起こることもあるとしたこと。イスラム古来の神の全能を否定することになる。第七に、人間が受ける賞罰の責任は全て人間にあるとしたこと。この主張は神の全能を否定するもので、コーランの言葉「自分の利益になることをするのも、害となることをするのも、ひとえに神の御心による(7章188節)」に矛盾する。
第八に、神の慈悲を忘却し、罪を犯して地獄に落ちた者は永久に救われないとして人々を絶望に突き落としたこと。これは「神はそれ以外の罪(多神崇拝の大罪以外の罪)を犯した者に対しては、もし御心ならば許し給うであろう」(4章116節)という神の大慈悲を無視するものである。第九に、アッラーは顔を持たず、目も耳も口もないとしたこと。これはコーランの教え(55章27節、38章75節、54章14節、20章40節)に矛盾している。
(2019年2月10日付748号)