国民の健康づくりに尽くした人

2019年2月10日付 748号

 今年のNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」の主役は2人、日本人で初めて1912年のオリンピック第5回ストックホルム大会にマラソン選手として参加した金栗四三(かなくりしそう)と、64年の東京大会誘致を成功させた元水泳選手の新聞記者・田畑政治(まさじ)。近代日本の国づくりをスポーツの面で進めた代表である。
 明治24年に金栗が生まれたのは熊本県和水町(なごみまち)で、後半生を過ごしたのが玉名市。昨年の大河「西郷どん」で田原坂の戦いが描かれていたが、『翔ぶが如く』を書いた司馬遼太郎が「西南戦争の関ヶ原」と言ったのが、玉名市の高瀬の戦い。ここでの敗戦から薩摩軍は敗走を続けた。西郷隆盛の末弟小兵衛もここで命を落としている。

近代日本人の育成
 四三という変わった名前は、父親が43歳のとき8人兄弟の7番目に生まれたから。少年時代のエピソードで、生家から玉名北高等小学校(現南関第三小学校)まで往復12キロの山道を駆け足で通ったからというのが有名だが、彼を近代スポーツマンに変えたのは嘉納治五郎である。旧制玉名中学を卒業後、第一志望の海軍兵学校に身体検査で落ち、第二志望の東京高等師範学校(今の筑波大学)に進んだので、嘉納校長に出会う。
 官立東京開成学校(今の東京大学)時代から虚弱で、学友らのいじめにあっていた嘉納は、弱い者でも強い者に勝てるという柔術を学び、それを改良して柔道を編み出していた。熊本の旧制第五中学の嘉納校長に英語教師として招かれ、嘉納の柔道を見たラフカディオ・ハーンは「逆らわずして勝つ」とその印象を記している。そして、強者の力を利用して勝つのが明治の日本であると、英語の著書で世界に紹介した。
 柔道を広めるため講道館を開いた嘉納が目指したのは、敵を倒し、身を守るためのスポーツではなく、健康な肉体を持つ人間を育てるためのスポーツである。それこそが西洋から学んだ近代スポーツであり、その象徴ともいえるのが近代オリンピックだったので、駐日フランス大使を介しクーベルタンからIOC(国際オリンピック委員会)日本委員への就任と、ストックホルム大会への選手派遣を依頼されたとき、快諾したのである。
 そして派遣選手選定の予選会マラソンで、世界記録を大幅に更新するタイムで優勝した金栗を見出した。出場を固辞する金栗に、「日本スポーツ界の黎明の鐘となれ」と説得したのである。
 初めての五輪マラソンは日射病による失神のため27キロ地点で棄権に終わったが、気落ちする金栗を嘉納は「この失敗がいい経験になる」と励ました。
 当時、日本の新聞は「大和男児の恥だ」などと金栗を非難したが、現地のスウェーデンでは「消息不明になった日本のマラソン選手」として、一種のミステリーのように話題になったという。背景には、日露戦争で世界の予想を覆して大国ロシアを破った日本への関心の高さがあった。その好意は、ストックホルム大会から55年後の1967年に、75歳の金栗がスウェーデンオリンピック委員会から記念行事に招待され、同じスタジアムに用意したゴールテープを切るところまで展開する。
 金栗は生涯、何度も失敗を繰り返しながら、そのつど新しい目標を見いだし、選手時代から後進の育成、とりわけ女子のスポーツ教育にも取り組んだ。選手層を広げるため箱根駅伝を発案し、富士登山の経験から高地トレーニングを導入するなど日本マラソン界の発展に貢献し、日本における「マラソンの父」と称されるようになる。地元では初代の教育委員長に就任すると、子供たちにマラソンを勧めたり、熊本走ろう会の名誉会長になって、健康マラソンの普及に努め、92歳で大往生した。

健康長寿が課題
 明治31年、静岡県浜松市に生まれた田畑政治も、弱い体を鍛えるために浜名湖で水泳に励み、選手として有望視されたが病気のため現役を断念。東大を出て朝日新聞記者になると、仕事のかたわら水泳指導者として古橋廣之進などを育て、水泳大国ニッポンの基礎を築いた。そして日本水泳連盟会長を長く務め、東京オリンピック招致活動でキーマンとして活躍したのである。
 2人に共通しているのは人間形成のためのスポーツ、人が幸福になるための運動である。健康長寿の高齢化時代にふさわしいドラマになってほしい。