スンニ派とシーア派に分裂

カイロで考えたイスラム(8)
在カイロ・ジャーナリスト 鈴木真吉

 イスラム教は正統カリフ時代最後の第四代カリフ、アリーの死後、大きくはスンニ派とシーア派とに分裂する。その経緯について、本田實信氏の『イスラム世界の発展』などを参考にまとめてみよう。
 アリーの死去に伴い、シリアのアラブ人は次代カリフにウマイヤ家のムアーウィヤ(在位六六一〜六八〇)を立てた。ムアーウィヤは、暗殺された第三代カリフ、ウスマーンにシリアの総督に任命されていたウマイヤ家の家長で、ウスマーンと対立していたアリーを批判する急先鋒だった。ムアーウィヤはシリアのダマスカスを首都にウマイヤ朝を開いた。
ムアーウィヤは、次代カリフ選出を巡る混乱を防ぐために、息子ヤズィードを後継者に指名した。この時点からカリフは選挙制から世襲制となり、以後はウマイヤ家の者のみがカリフとなり、十四代まで続いた。次のアッバース朝も世襲制を継承した。
 これを容認しなかったのが暗殺されたアリーの一派である。アリーには二人の息子、ハサンとフサインがいたが、弟のフサインがシーア派の盟主に仰がれた。フサインはヤズィードのカリフ権を認めず、六八〇年、クーファ西北のカルバラでウマイヤ朝の軍隊と衝突、この戦闘でフサイン以下八十七人が全員戦死した。以来シーア派は、この日を「フサインの殉教の日」として盛大な追悼式(アシュラーの祭り)を行うようになる。シーア派のカリフ権反対運動は失敗したが、シーア派そのものは生き続けた。
シーア派は、ムハンマドが神によって選ばれたように、その後継者も神意によって選ばれ、ムハンマドに血がつながるアリーとその子孫が真のカリフになるべきだとし、ムアーウィヤをカリフ位の簒奪者だと見なした。
 シーア派はアリーとその子孫をイスラムの最高指導者(イマーム)として崇め、過ちを犯さない神聖な存在だとした。これに対して、コーランとムハンマドの慣行(スンナ)に従う人々(スンニ派)は、シーア派が人を崇めるのはイスラムの道に反するとしている。
 ウスマーン暗殺の六五六年からアリー暗殺の六六一年までの第一次内乱を再統一し、カリフ位を認めさせたムアーウィア一世は、ダマスカスを首都とするウマイヤ朝(六六一〜七五〇)を開いた。同朝はムアーウィア一世からマルワーン二世までの十四人の世襲によるカリフによる王朝として続くことになる。
 ムアーウィア一世は、ウマイヤ朝の国家目標をイスラム社会の国家的統一とイスラム世界の拡大と      し、その基盤をアラブの民族的連帯に求めた。アラブ諸部族民は、クーファ、バスラ、フスタードなどの軍事都市(ミスル)に軍人として常駐し、拡大戦争に従事しつつ、非アラブの諸民族に君臨した。それに対し被支配者である非アラブは、商工業者か農民で、村落共同体ごとに租税(人頭税、地租)を収め、その代わり信教の自由を保証されていた。租税を免れるためイスラム教に改宗する者(マワーリー)がいたが、租税の免除は認められなかったという。アラブ人イスラム教徒は排他的特権を享受したことから、同朝は「アラブ帝国」とも呼ばれている。
 なお、同朝では国家的統一が優先されたことから、正統カリフ時代とは異なり政治権力が強化され、カリフの世襲などイスラムの理念に抵触することもあった。後世のイスラム法学者の中には、同朝を真のイスラム国家から逸脱した世俗・王朝国家と呼ぶ人も多い。
 六八三年のヤズィード一世の死後、同朝は存亡の危機(第二次内乱)に瀕したが、アブドゥル・マリクは六九二年に内乱を終結させ、国家の中央集権化、アラブ化に努め、メディナ、メッカも回復した。その結果、次のワリード一世の時代に征服運動も再開され、同朝は黄金期を迎える。
 ウマイヤ朝の国家体制は本質的に軍事体制で、地方分権的であったことから、同朝の支配した領域の広さは単独政権としてはイスラム史上第一で、西はピレネー山脈から東は中央アジア、北西インドに及んだ。ただ、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルの攻略には、ムアーウィア一世やワリード一世、その後継者で弟のスライマーン(在位七一五〜七一七)が挑戦したが失敗した。イスラム教徒によるコンスタンティノープル占領までにはなお七百有余年を要することになる。
 その後、政府とアラブ戦士やアラブ戦士間の対立、シーア派やハワーリジュ派からの散発的な蜂起、マワーリー(改宗者)の不満、ウマイヤ家内部の派閥抗争などが重なり、同朝は崩壊に向かう。
 七四七年、アッバース家の宣伝員、アブー・ムスリム(ペルシャ系の解放奴隷で、アッバース家の教主「イマーム」こそ、イスラム教徒の真の最高権威者だと宣伝した)がメルブで挙兵、七四九年、アブー・アッバース(在位七五〇〜七五四)がクーファでカリフに推戴された。七五〇年、マルワーン二世が逃亡先のエジプトで殺害され、ウマイヤ朝は滅亡した。革命は成功し、サッファーフを初代カリフとするアッバース朝が成立した。
 なお、ウマイヤ朝再建を図ったヒシャームの孫のアブドル・ラフマーン一世(七三一〜七八八)は、アッバース朝の追っ手を逃れ、七五六年にイベリア半島のコルドバでウマイヤ朝を再興、後ウマイヤ朝(七五六〜一〇三一)となる。
 この時代は、イスラム文化の揺籃期で、法学、伝承学、歴史学などのイスラム諸学問が生まれた。詩のほかにさしたる文化的伝統のなかったアラブは、征服地の先進文化を積極的に受容し、イスラム的に再生したとされる。
 預言者ムハンマドの叔父、アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫アブー・アッバース(サッファーフ)を初代カリフとして創建されたアッバース朝は、全イスラムの長たるカリフを名乗る以上、ウマイヤ朝体制を継承する必要があり、シーア派過激派を弾圧、スンニ派体制によるカリフ権威の確立に努めた。
 第二代カリフのマンスール(在位七五四〜七七五)は、革命の功臣アブー・ムスリムを処刑して、ホラサン軍をカリフの直属軍として掌握、政権基盤を固めた。徴税機構を整備して財政を安定させ、ワズィール(宰相)を頂点とする中央集権機構を確立、裁判官の任免権も握ってイスラム法による裁判の公正を期し、司法権も確立した。アッバース朝では、ウマイヤ朝時代の支配階級だったアラブ人の特権を廃止し、改宗した異民族にも課せられていた人頭税を異教徒のみとし、全てのイスラム教徒を平等に扱った。
 ここにおいて、神の下の平等を説くイスラム本来の統治理念が実現し、真の意味での「イスラム帝国」が成立した。すなわち、「信者の長」としてのカリフは、「アラブ戦士の長」ではなく「イスラム教徒の長」となり、「イスラム圏」の防衛ばかりではなく、イスラム社会の育成と発展に心を砕くようになる。
 マンスールは七六二年、首都の建設を開始、多大の労役と莫大な費用を投じて三重の城壁を持つ円形都市を造営し、七六六年、バグダッド(平安の都)と名付けた。バグダッドを中心に交通・通信網を整備、また駅伝制を完備し、地方総督の統治の状況やシーア派の動向、反乱の有無などの各地の情報を集め、独占した。最盛期にはモロッコから中央アジアまでの西アジアに巨大なイスラム帝国を築く。中央アジアでは、唐と領土を接することになり、早くも七五一年にタラス河畔の戦いが起こり、唐を撃退した。
 七八六年、ハールーン・アッラシード(在位〜八〇九)が第五代カリフに即位すると、アッバース朝は最盛期を迎える。有名なアラビアンナイト(千夜一夜物語)は、当時のバグダッドやバスラを舞台にした話が多いとされる。
 九〜十世紀の最盛期にバグダッドの人口は百五十万人になり、第七代カリフのマームーンは、ギリシャ語の学術書の収集と、それのアラビア語への組織的翻訳を目的とする「知恵の館」を設立し、図書館や病院を設立した。バグダッドはまさにイスラム学術の中心となったのである。
 アッバース朝では、エジプト、バビロニアの伝統文化を基礎にして、アラビア、ペルシャ、ギリシャ、インド、中国などの諸文明と融合して学問が著しく発展し、近代科学にも多大な影響を与え、後のヨーロッパ文明の母胎にもなった。
 十世紀前半にアッバース朝は衰え、九四五年にブワイフ朝がバグダッドに入城したことで実質的な権力を失い、その後は有力勢力の庇護下で、宗教的権威としてのみ存続していく。一〇五五年には、ブワイフ朝を滅ぼしたセルジュク朝の庇護下に入り、一二五八年、モンゴル帝国により滅ぼされた。ただ、カリフ位だけはマムルーク朝に保護され、一五一八年にオスマン帝国スルタンのセリム一世によって廃位されるまで存続した。
(2018年9月10日付743号)