扉の鍵穴になったマルタ島

キリスト教で読み解くヨーロッパ史(1)
宗教研究家 橋本雄

 西洋文明の基盤となり、過去二千年にわたり、良きにつけ悪しきにつけ、あらゆる面で世界的に影響を及ぼしたキリスト教。本連載は、日本ではあまり知られていない西洋キリスト教のエピソードを通して、読者がキリスト教文化への理解を深める一助としたい。

 地中海に浮かぶ小さな島マルタ島は、風光明媚で暖かく、海の美しさ、人情の厚さ、食事の旨さ、そして歴史のある街並みで世界中の観光客を魅了している。私がマルタを訪れたのは夏の始まりであったが、太陽光はとても強く、目にまぶしかった。それでも木陰に入ると涼しい風が吹き抜けて気持ちがよかった。
 マルタ島は地中海の東西の中間であり、ヨーロッパと北アフリカを結ぶ中継地点に位置している。ヨーロッパと北アフリカを結ぶ飛び石の一つで、このような地理上の位置からして、マルタ島の歴史は簡単なものでなかった。地中海の覇権をめぐる戦い、イスラムとキリスト教の戦い、東西南北の文化の交流など、歴史の大きな流れの中で翻弄された島と言えよう。
 私はマルタ島の宗教者や政治家と会って、「この島は、まるで大きな扉の鍵穴のような役割を果たしてきた」と感じた。鍵穴によって扉が開閉するように、マルタがヨーロッパに対して「開いたもの」と「閉じたもの」がある。
鍵を開けたパウロ
 「開いたもの」はイエスの教え(まだカトリック・キリスト教が成立する前なので、このように呼ぶことにする)の伝播である。イエスの教えをローマ世界に伝播していたパウロが捕縛され、ローマに移送される途中、乗った船がマルタ沖で座礁した事件が、新約聖書の使徒行伝27章、28章にある。
 宣教の過程で反対するユダヤ人に逮捕されたパウロは、ローマ市民権を持っていたため皇帝に上訴することが許され、ローマに連行されることとなった。当時の地中海旅行は簡単なものではなく、船旅は風まかせで、時折の暴風雨で多くの人々が命を落としていた。
 パウロのローマ連行も困難に満ちており、ローマ到着直前に、マルタ沖で船が座礁し壊れてしまった。聖書を読むとパウロは嵐の困難を予言するが、「あなたは皇帝の前に立たないといけない」(使徒27章24節)ので、全ての人も助かるとの啓示を受ける。そして奇跡的に上陸した島マルタ(実際はマルタの外れのマリタという場所)に滞在し、そこで毒蛇に噛まれても死なないという奇跡を示し、現地の人々が伝道されてきた。これがヨーロッパ最初のイエスへの帰依者の誕生物語である。最初のキリスト教徒がここマルタで生まれたのである。
 紀元六〇年頃とされるので二千年近く前の話である。「キリスト教が最初にヨーロッパで伝わったのはマルタ」という誇りが、マルタの人々の心の中に息づいている。上陸した場所には記念碑が立ち、マルタ共和国の首都バレッタにはパウロ難破記念教会がある。パウロが逮捕され、ローマへ連行されることにより、むしろイエスの教えがローマ帝国西部に伝播していったのは興味深い。
イスラム教には閉じる
 それに対して「閉じたもの」はイスラムからのキリスト世界防衛である。ヨーロッパ・キリスト教史で忘れられないのがマルタ騎士団である。特徴ある十字(マルタ十字)で有名なマルタ騎士団こそが、マルタ島を世界的に知らしめたと言っても過言ではない。
 そもそも本来の名前である聖ヨハネ騎士団とは「騎士修道会」であり、本質は修道士である。そして、やがてローマ教皇に命懸けで忠誠を尽くす軍事集団となり、巡礼者への慈善医療奉仕とともに、地中海でのイスラムからの防衛最前線での役割が騎士団の使命となった。
 騎士団は、一二九一年の聖地エルサレム陥落後、キプロス島に撤退し、ロードス島をオスマン帝国に追われ、一五三〇年以降より西方のマルタ島に移って来た。そしてマルタ騎士団と呼ばれるようになり、イスラム船への海賊行為や奴隷貿易にもやがて手を染めたという。十字軍での活躍を通して「中東イスラムからのキリスト教防衛の最前線」という役割も担うようになっていた。
 首都バレッタは、イスラムを撃退したマルタ騎士団の団長の名前に由来し、要塞都市としての威容を誇っている。海側から見た要塞の景観は見るものを圧倒し、マルタ島はキリスト教世界を守る最前線としてイスラムに対して扉を閉じたのである。
 マルタ騎士団の団員となることは大いなる名誉であり、ヨーロッパ各地から貴族の子弟が騎士団に参加した。そしてイスラムとの戦いの最前線であったため、多額の寄進がヨーロッパから集まり、バレッタ市内の聖ヨハネ大聖堂(一五七七年完成)は黄金と芸術に包まれた絢爛豪華な教会となった。
 教会内には騎士の母国語に従い小聖堂が八つあり、戦闘で死亡した騎士四百人余りが床に埋葬されている。その墓所の石板一枚一枚の芸術性が極めて高く、多くの人々に感動を与えている。そして、死してもカトリック信仰を守り、教皇に忠誠を誓う精神があふれている。
開けるものと閉じるもの
 聖ヨハネ大聖堂をさらに有名にしたのは、イタリアの画家ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオの絵「洗礼ヨハネの斬首」であろう。イタリアで殺人を犯し、マルタに逃亡して来たカラヴァッジオは、騎士になりたい一心でマルタ騎士団団長の肖像画を描き、入団が許されたと言われる。光の陰影を巧みに使い、極度の緊張感が漂う構図のこの作品はカラヴァッジオの最高傑作となり、自分の名前をサインした唯一の絵となっている。激情の画家の人生を暗示するような絵である。
 結局、カラヴァッジオはマルタで再度事件を起こし、マルタを追われ病死する。キリスト教の名画を多く残したが、キリスト教の精神は理解しなかったのかもしれない。神はカラヴァッジオに類い稀な画才を与えたが、激情も与えた。その激情がカラヴァッジオの絵を生み、その激情が彼自身を死にいたらしめることとなった。カラヴァッジオは、画才は大きく開いても、激情は静かに閉じておかなければならなかったのかもしれない。
 使徒行伝28章には、ローマに連行されたパウロがイエス・キリストについて宣べても聞く耳を持たない人々に対して、「この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている」(使徒28章27節)と語っている。新しい信仰や宗教に関しては耳も目も閉じやすのが歴史の教訓である。
(2018年9月10日付743号)