疾病除けの庚申信仰

連載・神仏習合の日本宗教史(14)
宗教研究家 杉山正樹

青面金剛掛軸

 中国王朝晋の道士・葛洪(かっこう)著の神仙書『抱朴子』によれば、「人の体内には三尸(さんし:三匹の虫)がおり、庚申(こうしん)の日に昇天し司命道人(人間の寿命をつかさどる天神)に人間の過失を報告して早死させる」という。「庚申の日」とは、「甲子」から始まる十干十二支の組み合わせで57日目に巡る日である。
 「庚申の日」の夜、人々が寝静まると「三尸」は宿主の体内から密かに抜けだし、その宿主が行った悪事を天帝に告げる。悪事の知らせを受けた天帝は、行いの悪い人に対し罰を与え寿命を縮めてしまう。「長生きしたければ三尸が天帝の元へ行かないよう、庚申の日は一日中眠ってはならない」と、「三尸」の昇天を防ぐため、道士たちは不眠の行を行った。これが「守庚申」である。
 「三尸」には「上尸」「中尸」「下尸」の3種があり、「上尸」は人間の頭部にいて、目がかすみ、皴が寄り、口が臭くなり、歯が抜ける。「中尸」は腹にいて、五臓を侵し、短気健忘のもととなる。「下尸」は足にいて、五情を乱し、淫欲を好ませるという。この教えが中国から日本に伝わると、仏教と結びついて道教色が薄らぎ、形を変えて広く庶民にも広まった。
 「十干十二支」の60日ごとにやってくる「庚申の日」には、「三尸」が天に昇れないよう、夜通し起きて過ごす民俗信仰=庚申信仰がこうして生まれた。疫病が蔓延した大宝元年(701)、四天王寺の僧・毫範(ごうはん)が仏の加護を祈ると青面金剛が現われ、これを平癒したという。その日が庚申の年、庚申の月、庚申の日であった(窪徳忠『庚申信仰』)。

小野照崎神社の庚申塔

 奈良時代に渡来した庚申信仰は、平安期に入ると貴族社会で流行し、碁・詩歌・管弦の遊びを催した後「庚申御遊」と称される宴が張られた。中世を経て江戸期には広く民衆に広がり、集落の者が徹夜で飲食をして集う「庚申講」に発展する。民間に普及する際には、僧侶や修験者、神官などにより、庚申の由来や祭神、講のやり方を記した『庚申縁起』と呼ばれる書き物が一役買う。また、辻々で庚申塚や庚申塔が建立された。
 天に住む司命道人は密教の青面金剛(シヴァ神の転化・マハーカーラとの説も)、あるいは帝釈天と混淆し、「庚申」は申(さる)との連想から、日吉社の神使である猿、さらには天帝に告げない「見ざる言わざる聞かざる」の三猿につながった。
 「庚申講」で掲げられる掛け軸には、本尊青面金剛の下に三猿が描かれた。江戸時代後期になると垂加神道を提唱した山崎闇斎が、『記紀』に登場する塞の神・猿田彦命を庚申と結びつけることで、神道的庚申信仰が広まり、「猿田彦大神」を祀る庚申堂も多く見られるようになる。
 庚申信仰のご利益は、延命長寿・無病息災、厄除け火難除け、家内安全など百事全般。農村では豊作や養蚕の神、漁村では大漁や海上安全を守る神、町部では商売繫盛の神として庶民の生活にも深く関わるようになる。庚申の日の夜に子供を授かると、その子は盗人になるといわれ、肉類を避けなければならないという禁忌もあった。近代にはそうした習いも薄らいでいく。
 東京都台東区谷中の小野照崎神社は仁寿2年(852)の創建で、主祭神は平安時代の公家参議・小野篁(たかむら)。篁は、白居易と対比される漢詩の大家・学者であったが、陰陽道にも通じ、夜になると冥土の閻魔帳庁に副官として出仕するという噂があった。

昭和の庚申講の様子

 江戸時代、大阪四天王寺庚申堂、京都八坂庚申堂、東京入谷庚申堂(現存せず)は、日本三庚申と呼ばれた。小野照崎神社の境内には、当時の入谷庚申堂に祀られていた庚申塔11基が遷祀されている。その一つ青面金剛の塔は、聖徳太子作とされる大阪四天王寺の霊像を模造したもの。境内末社には、御霊信仰で知られる菅原道真、浅間神社の築山、御岳神社・三峰神社・琴平神社、稲荷神社・織姫神社が配祀され、わが国の神仏習合世界のパノラマが展開される。
 医療のインフラが乏しい時代、疫病の流行は被害が甚大で、為政者は神仏の加護を願うしかなかった。庚申信仰や道祖神の石碑には、疾病除けを最大の除災とした当時の民衆の知恵と信仰の足跡が刻まれている。
(2023年6月10日付 800号)