三河一向一揆で家臣団が分裂

連載・宗教から家康を読む(3)
多田則明

一揆の拠点になった本證寺

 豊臣秀吉が家康に対し、天下の宝といわれるものの大半を集めたのを自慢して、家康の宝は何かと聞いたとき、家康が 「家臣が最高の宝」で「貧しい田舎武士の集まりだが、私のために命を捨ててくれる武将が500騎いる」と答えたのは有名な話。それほど家臣団の結束を誇った家康だが、その家臣団が分裂してしまったのが、20歳すぎで直面した三河一向一揆である。
 桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にした後、駿河には帰らず、自身が生まれた岡崎城に籠った家康は、義元の後を継いだ今川氏真と対立するようになる。今川との戦いに備え、税を取り立てない「不入の特権」を認めていた一向宗(浄土真宗)の寺にも兵糧米の供出を求めたことに寺が反発したのが、一揆のきっかけになった。
 法然の教えをさらに先鋭化させた親鸞の浄土真宗の特徴は、人々の救済を本願とする阿弥陀如来一仏への絶対的な信仰である。当時、来日した宣教師が、キリスト教と似ていると驚いた記録があり、八百万の神がいる神道や、ヒンズーの神まで取り入れた諸仏がいる仏教の伝統の中で、真宗は極めて特殊な信仰だった。
 親鸞の教えの特徴は往相(おうそう)と還相(げんそう)の二種回向(えこう)にある。人は死後、西方(東方)浄土に行くというのは宗派に共通した教えだが、浄土で救われた状態で現世に還り、人々の救いのために働くのが還相で、阿弥陀如来の心境で利他に励むことから、利己心を離れた積極的な善行につながる。この教えは、既に神の救いの予定に入っているから、その証として全力で働くという、資本主義の倫理を生んだカルヴァンの二重予定説と心理構造がよく似ている。
 小さな教団だった真宗を飛躍的に拡大させた蓮如は、それまで一段高い高座から語ることをやめ、人々と同じ目線で、膝を突き合わせて親しく教えを説くようになる。真宗の同朋意識で、封建社会では考えられない対等な人間関係が人々を感銘させたのである。宣教師が感心したのは「御文(おふみ)」と呼ばれるかな書きの手紙で、庶民にわかりやすい言葉で親鸞の教えを語っていて、それがキリスト教に取り入れられたのが文書伝道である。
 真宗は農民をはじめ商人や職人たちに受け入れられ、彼らは勤勉に働き、横のつながりが強いことから、各地で寺内町を形成するようになる。三河には千軒もの家の周囲に堀を巡らせた寺内町があり、矢作川の舟運を利用した商業が活発で、岡崎以上に経済的に繫栄していた寺が三つもあった。寺も石垣を巡らし、堀で守られているので城と同じで、守りの僧兵も抱えていた。現代と違って中世の寺院は銀行や大学でもあり、そこから税金を取れないのだから、戦国武将としても困ったであろう。
 一揆側に名を連ねた武将たちは、「主君の恩は現世のみだが、阿弥陀の恩は未来永劫」と考え、「進めば往生極楽、退けば地獄」を旗印に門徒らを戦わせた。その中には今川の人質時代から家康に仕え、後に帰参して幕府の重臣になった本多正信や徳川十六神将に挙げられた渡辺守綱や蜂屋貞次もいた。最終的に一揆側と和睦した家康は彼らの帰参を許し、その懐の深さが宝のような家臣団を育てたといえる。
 もっとも、その後の家康は、武装解除した寺内町の堀を埋め、改宗に応じなかった寺を壊して抵抗の芽を摘み、これによって三河全体を治める戦国大名に発展した。これ以後20年、三河は真宗が禁じられ、武田信玄に大敗した三方ヶ原(みかたがはら)の戦いでも、本願寺の呼びかけで信玄に呼応する一向宗は出なかった。
 心の広さとともにしたたかさが家康の真骨頂で、それだからこそ戦のたびに成長し、73歳の長寿を全うできたのだろう。
(2023年4月10日付 798号)