『小説の方法』『変容』『女性に関する12章』伊藤整(1905~69)

連載・文学でたどる日本の近現代(36)
在米文芸評論家 伊藤武司

伊藤整

文壇の秀才
 「文壇の秀才」と評された伊藤整は、きまじめで堅実な相貌をもつ。小説、評論、随筆、エッセーで自己を語った代表作の一つ、1956年発刊の『若い詩人の肖像』は自伝的な小説で、北海道の余市・塩谷村・小樽で幼少期を過ごし、詩に熱中した青春の日々を、哀愁の調べにのせつづっている。
 伊藤は1905年、北海道松前地方南端の漁村・炭焼沢村(現・松前町)の小学校教員の家に、12人の兄弟の長男として生まれた。小樽高等商業学校(小樽商科大学の前身)時代には詩歌を愛し、白秋や朔太郎、犀星の詩集を読みあさる。上級生に小林多喜二がいてプロレタリア文学にも引かれたが、本質的には抒情派の詩人であった。
 21歳の処女詩集『雪明りの路』では「詩にとりつかれた」青春を追想し、詩人としての肖像が己の「原型」だとした。「それ以後の恥多き著述は、これ等の作品の延長と加筆にすぎぬという意識を、絶えず抱いている」と述べ、小説『鳴海仙吉』にも「詩以外はすべて売文と考へてゐた」と記す。高商を卒業後中学校で英語を教え、同人誌に詩を発表した。1927年に22歳で上京し、東京商科大学(現・一橋大学)でフランス文学を専攻し、小説・文芸評論の執筆活動を始めた。戦時下の小説は『典子の生き方』『得能五郎の生活と意見』など。
 1940年に出した『典子の生き方』は、昭和10年ごろの不安定な社会を背景に、困難な未来に向かい生きようとする主人公に人生の普遍性を重ねた、メッセージ性の濃い作品である。
 小市民的な生活を私小説風にアレンジしたのが長篇『得能五郎の生活と意見』で、伊藤文学の特徴である軽妙な自己戯画化・自己分析と風刺をきかせ、新時代を思わせる太宰治の『ダス・ゲマイネ』や高見順の『故旧忘れ得べき』と同系の代表作となった。
 無頼派と呼ばれたグループに属する学究肌の作家とされた伊藤は、評論家としても才能を発揮する。最初の評論集は1932年の『新心理主義文学』である。第一次大戦後、ヨーロッパでジェイムズ・ジョイスやプルーストらにより胎動した文学運動が「新心理主義文学」である。それはフロイトの心理分析と軌を一にし、「意識の流れ」や自我の「内部独白」の分析を主体としていた。
 同世代の小林秀雄は異を唱え、海外文学の翻訳・紹介の努力を尊重しつつも、日本の小説は未だ過去のものとなったわではないと注文をつけた。伊藤の「以来、ぼくの書いたエッセイや小説はあらゆる種類の非難と嘲笑と否定と雑言と、…を浴びとおして来た」というのは実感であろう。おそらく、私小説が主潮の日本文壇の伝統や権威に歯向かう行為とみなされたのだ。伊藤はかけだしの27歳で、やがて一世代をへて登場する大江健三郎は、「言葉の技術者…まことに高度な専門家であった」「氏は言葉の匠の自負をゆずることはなかったであろう」と評した。
 戦後の混乱期に11篇からなる長篇評論集『小説の方法』を発刊。7年後には続編『小説の認識』を上梓。ねばり強い思索の諸論文は、日本の近代文学、特に私小説に光をあて、ヨーロッパ文学との対比で社会的環境の相違を考察し、「逃亡奴隷と仮面紳士」の新概念を尺度に、逍遥、四迷、鴎外、漱石、芥川、花袋、藤村、秋声、白鳥、志賀らを多面的に考証・究明した。伊藤は「近代の日本文学理解のために、自分の納得の行くように、自分流にではあるが論理的組織を作ろうとした」と動機を記している。奥野健男は、伊藤の構築した創造的文学理論を、漱石の『文学論』、吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』とともに三大文学理論と規定し、「伊藤理論」として記憶されることになる。
 新心理主義に則った長篇小説『鳴海仙吉』は、主人公・仙吉をあたかも他人に接するように客観的に観察した小説の可能性を先取りした実験作である。
 伊藤は、文芸評論『小説の運命』『組織と人間』『作家論』『求道者と認識者』、大著『日本文壇史』など多岐にわたる文芸評論・随筆・エッセイ・日記を遺した。山本健吉は随筆・エッセイが好みで、『無関心な飲食者』『外遊日本人の孤独』『北海道の村の話』『五十歳の人間の話』などは、著者の素朴なぬくもり、誠実なやさしさ、詩的感性を感じるという。伊藤自身は、ロレンス、ジョイス、井伏、椎名などの論談に思想のすべてを組みこんだ『我が文学生活』に愛着があるという。
 ジョイス文学の研究者でもある伊藤は『ユリシーズ』を訳し、翻訳にはロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』『恋愛論』『息子と恋人』、ジイドの『狭き門』『贋金づくり』、バーネットの『小公女』、オルコットの『若草物語』などがある。

伊藤理論
 『小説の認識』には「近代日本人の発想の諸形式」の古典的一篇がある。冒頭「私は文学の理論と制作とを同時に考慮する癖をもっていた」とし、客観と冷徹な分別による近代文壇の鳥瞰を試み、私小説作家たちの諸相を、調和型、逃避型、破滅型、上昇型、下降型に分類して、「私小説的な作品が発展して行く時には、作家の私生活は犠牲にされる。また作家の私生活が調和する時は、作品は生活の方便とされるか、でない時は作品は書けなくなる」という有名なテーゼをうちだした。
 新心理主義がめざす人間造形には重く暗いイメージが付着している。「生命はいかなる様相と、いかなる働きにおいて実在しているかということが、私にとっての関心事である」と表白する「伊藤理論」の創作は、ノンフィクション文学『裁判』や心理小説の三部作『氾濫』『発掘』『変容』として結実した。
 実在の世と人生は歪んだ世界で、完全な社会の人間もありえないという醒めた認識に立つ伊藤は、人間の幸福や善を追い求める白樺派のような作品を描くことはなかった。言い換えれば、エゴという観念をステップに、人間の「無意識の世界にまでその領域を推し進め」、「意識の流れ」を執拗に分析し、陰影をねりあげるという非情に徹したプロセスを経て「残酷な小説」となった。
 『氾濫』の主人公は、化学工場の技師から重役になった真田佐平。真田の家族と、準主人公の財閥の血筋を引く評論家・久我象吉を対比し、出世し激変した主人公の生活様式を内面から心理的に分析している。
 真田は富や名誉を獲得し上流社会に属しても幸せの実感はなく、膨張する男女の愛欲や権威欲、不信感がからむ氾濫の渦に翻弄されてしまうのだ。現代風の経済小説のようであるが、その本質は、人間の内面の動きを暴いた「一人の技術者の生活の悲劇」であるとコメントしている。
 なかでも最後の長篇『変容』は、埴谷雄高が傑作と認め、平野謙も「日本文学のなかの屈指の名作」と絶賛。没後、日本文学賞が贈られた。生命や性が若者だけに許された特権ではなく、老人にも同じ性状があるというモチーフがある。回想的な物語に登場する主要人物は、主人公の画家・龍田北冥、流行作家・倉田満作、その弟子・竹林玄、モデルの女・小渕歌子ら。初老にさしかかった北冥は名の知れた日本画家で子供はいない。「60歳に近くなり、髪白く、屈みがちに」なっても、若いころからの「色好みの生活」は盛んで、エイジズムなどはまったく無縁。妻・京子を15年前に喪った自由な身には、人生の執着や仕事からくる焦燥感、神経過敏の気味はあるものの、倦むことのない異性への欲情や恋愛感情は若者と少しも変わることはない。
 やがて、亡くなった長年の旧友・倉田の妻でバーのマダム小渕歌子の「ガス心中」を潮時に、歌子の中学生の娘・柾子を養女にしたいと思い始める。「人生の薄暮のせまって来た」龍田は、これから「伸びてゆく生命」「未来の生活の可能性のすべてを持って今を生きている生命」柾子に愛情をそそぎ、感傷的な気分にひたるのであった。これまでの伊藤の作品が死を暗示する結末となることとは対照的に、明るさのただよう『変容』の終わり方に「私は、自分のものの書き方が変わり目に来たことを感じた」と自省している。

チャタレイ裁判
 伊藤が一躍、時の人となったのは、昭和25年のチャタレイ裁判。今日では問題にもならない性描写の訳文がわいせつ罪に該当すると起訴されたのだ。裁判は文壇界と知識人らを巻き込み、中島健蔵、福田恆存が弁護人になり、吉田精一、吉田健一らは法廷で証言した。表現の自由が争点となり最高裁で敗訴、罰金刑となる。原作、D・H・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』は、身分の違う貴族の夫人とその恋人・森番とのラブストーリーで、イギリスでもスキャンダルになった。当時のイギリス社会では、貴族と召し使いとの恋愛などあり得なかったからだ。
 裁判の体験を書き添えた小説『火の鳥』をきっかけに「伊藤ブーム」が起こる。『婦人公論』に1年間連載した『女性に関する12章』は、出版後40万部以上のベストセラーとなり映画化された。普段はおだやかな人物が、男と夫の目線で女性観、人生、愛、家庭観などを揶揄をこめて言い放つ戯作評論は、女性たちの心をとらえた。圧倒的な共感を呼び、伊藤は一躍流行作家になってしまう。
 「結婚と幸福」では、「あなた方は…世の中や電車の中の男性たちにどのような印象または効果を与えつつあるかが、分っていません」と言い切る。「女性の姿形」では、平等の世に紛れもない不平等のあるのが女性の容姿だと明言。「哀れなる男性」では「果たして世の男性たちは全部、安全にその妻のみを守って暮らしているであろうか。…実に嘆かわしいことであるけれども、そうではない」とつき放す。「愛とは何か」になると「日本の女性は日本の男性を愛し得るか…。悪いのは悉く日本の男性である、などという断言はして頂きたくない、と私は念のため女性各位にお願い申します」とやんわりと説教。もっと露骨な形容が「正義と愛情」で、「一般に女性は、自己のものと考えている男性が他の女性に接近したり、他の女性を愛したりする時に、腹を立て、額にタテジワをよせ、リュウビをさか立て、色青ざめて、ヒキツケルような容貌になります」と。
 男性中心のタテマエの社会で伊藤の饒舌に真実を感じ、女性たちは喝采を送った。裁判を戯作風に描いた評論『伊藤整の生活と意見』をはじめ、『花ひらく』『海の見える町』『文学入門』『文学と人間』『感傷夫人』『若い詩人の肖像』『誘惑』『氾濫』など次々にベストセラーを書きあげた。
 伊藤の唯一の弟子・奥野建男は、「日本の近代文学をはじめて体系化し、原理論を確立し」、「もっとも公平でその作者をも読者をも納得させ得る」不屈の精神と豊かな批評眼をもった文学者であった、と賛辞を贈る。
 伊藤は日本近代文学館理事長に就任、日本ペンクラブ副会長の任にもついた。『収容所列島』のソルジェニーツィンが受賞した1970年にはノーベル賞候補者に挙げられていたことが、後に分かった。惜しまれながら64歳で病死。小樽市塩谷の日本海を一望する海辺に自選・自筆の詩「海の捨児」の文学碑が建てられ、伊藤整文学賞も創設された。
(2023年4月10日付 798号)