信長の娘冬姫が眠る百萬遍知恩寺

連載・京都宗教散歩(8)
ジャーナリスト 竹谷文男

百萬遍知恩寺(京都市左京区)御影堂

 6月2日は織田信長の命日だが、その娘で大名に嫁ぎ、その後、尼僧になって秀吉の側室になるのを拒んだ女性がいたことは、余り知られていない。次女冬姫で、今は百萬遍知恩寺(京都市左京区)の塔頭・瑞林院(河合真人住職)の墓所に眠る。
 明智光秀は早朝、信長の京都の宿所を襲い、信長は自害、享年48、本能寺の変(天正10年、1582年)だった。この日、安土城に居た信長の妻子や親族たちの驚きと不安は想像に余りある。信長は安土城を出発する前に城の守りを、近江の武将である蒲生賢秀(かたひで)に任せた。その嫡男の氏郷は、安土城から数里ほど東南に位置する日野城を守っていた。蒲生親子は早くもその日の午前に、早馬で変の報に接した。
 信長は正室のほか多くの側室を持ち子供も多かった。しかし、「この男にはぜひ娘を」と眼鏡に叶って嫁がせた例は少なかった。その一人が蒲生氏郷で当時14歳、娘は次女の冬姫といわれている。
 蒲生家はもとは反信長側の家臣だったため、嫡男の氏郷は13歳から信長のいる岐阜城に人質として預けられた。聡明で物怖じしない氏郷は信長の目に留まり、人質だったにもかかわらず冬姫の婿に選ばれた。冬姫は、美人の誉れ高い信長の妹お市の方に最も似ていて、氏郷とは似合いの美しい夫婦だったと言われている。
 冬姫とともに日野城にいた氏郷は、本能寺の変の時は27歳、報に接するやすぐさま輿や馬を準備して父賢秀と信長の妻子たちを安土城に迎えに行き、翌日には日野城に無事、避難させた。周囲は明智方に付いたが、氏郷は義父信長を討った明智に付くはずもなかった。また冬姫の実弟・於次丸(おつぎまる、信長の四男、後の羽柴秀勝)は、秀吉の養子となっていた。そして、ほどなくして光秀は、羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れた。
 この時の氏郷の機敏な動き、その後の武将としての戦いぶり、そして領地の治政などが秀吉に認められ、天正11年(1589)、伊勢・松が嶋12万石に転封となり、その地を松坂と改名して発展させた。氏郷は、冬姫を貰ったことで嫉視されることは多かったが、その後も功績を積んで行った。氏郷は側室を持たず、夫妻は仲むつまじかった。冬姫は信長譲りの聡明さと美貌を備え、また氏郷が不利になるような言動もなく、氏郷夫婦は順風満帆だった。
 氏郷はまた、高山右近、細川忠興ら気心の知れた友人との交友を楽しんだ。氏郷と右近はクリスチャン大名で、忠興は妻ガラシャがクリスチャンだった。氏郷と右近は側室を持たず、忠興もガラシャを深く愛していた。3人とも千利休の高弟「利休七哲」に数えられ、天正18年(1590)の小田原の北条攻めで3人は、当時珍しかった牛鍋を楽しんだりした。

冬姫の墓(百萬遍知恩寺塔頭瑞林院)

 小田原攻めの直後、氏郷は会津70万石に転封され、その後の検地によって会津の石高は90万石を越えた。氏郷は、秀吉の家臣の中では徳川家康、毛利元就に次ぐ3番目の大大名となった。
 蒲生家が転封された会津の地では、伊達正宗との葛藤を抱え、また氏郷は寒冷な風土になじめないこともあって、徐々に健康を害していった。そして文禄4年(1594)、伏見の蒲生邸で右近に看取られながら40歳で病没した。「かぎりあれば 吹かねど花は散るものを 心みじかの春の山風」。自らの早世を悼むかのような句だった。
 晩年の氏郷は、秀吉に対しては微妙な立場にいた。信長の次女を妻に持ち、利休の高弟と目され、また軍略に優れた武将であり、クリスチャン大名でもあった。いずれもが秀吉に嫉まれる要素だった。そのため氏郷には毒殺説がささやかれるが、今となれば不明である。翌年、13歳の嫡男鶴千代(後の秀隆)が家督を継ぐことが秀吉から認められ、冬姫は会津でこの若い当主を支えることになった。
 ところが氏郷の死後3年が過ぎると、冬姫に対して秀吉から上洛の書状が届いた。秀吉は、お市の方の娘・茶々(淀君)など多くの織田家の縁戚者を側室にしていた。冬姫が秀吉に会えば側室にされるおそれがあった。
 冬姫は、意を決して髪を切り僧形となった。墨染めの衣をまとい上洛して秀吉の前に出た冬姫は、剃り上げた頭の覆いを取り「夫の菩提を弔うのは妻の務めですから」と挨拶した。尼僧を側室にすることは秀吉でもできず、返す言葉を失い、満天下に面目を失った。この報復であるかのようにその後すぐに若い当主を頂く蒲生家は、藩の内紛を理由として宇都宮18万石に転封させられた。
 冬姫はその後、氏郷の菩提を弔いながら、百萬遍知恩寺の塔頭・瑞林院で過ごし、81歳の天寿を全うした。墓は瑞林院に立ち、そばには4歳下の弟で、秀吉の養子となり18歳で病死した羽柴秀勝も眠っている。秀勝の座像も瑞林院に残されている。
 最近、冬姫の墓参りに瑞林院を訪ねてくる若い女性が増えていると、前住職・河合孝俊師は語る。同師は冬姫の魅力について「信長の娘に生まれ、知勇に秀でた氏郷に嫁ぎ、夫婦仲が良かったが、氏郷が早世したので、秀吉が側室にしようとした、それを尼となって拒んだ。そういう冬姫の潔い生き方が、共感を呼ぶのでしょう」と話した。
(2022年6月10日付 788号)