気比神宮の御祭神が神身離脱

連載・神仏習合の日本宗教史(2)
宗教研究家 杉山正樹

気比神宮の大鳥居

 6世紀中半、欽明天皇の御代に伝来した仏教は、多少の混乱を経ながら、王家が受容したことで全国へ急速に伝播するようになる。その過程で、列島の各地の神社において奇妙な現象が起きていた。日本古来の神々が「神の身」であることに苦しみ、その苦から逃れるべく、仏法に帰依したいと願った、というのである。
 天平宝字4年(760)成立の藤原氏家伝『藤氏家伝』には、藤原武智麻呂に現れた越前敦賀・気比神社の祭神である「氣比の神」の告夢が次のように記されている。「吾が為に寺を造り、吾が願を助け給え。吾れ宿業に因りて神たること固(もと)より久し。今仏道に帰依し、福業を修行せんと欲するも因縁を得ず」
 武智麻呂は、藤原不比等を父に持つ有力官僚であり、不比等薨去後は実質的な後継者となって藤原四子政権を主導した。武智麻呂は「氣比の神」の神託を受け、境内に神宮寺(霊亀元年・715創建とされる。現在は廃寺)を建立したとされ、神宮寺創建の第一号となった。かくして神宮寺は、苦しむ神々を救済する「神身離脱」の修行場として、神社付属の仏教施設の様式で全国に広がっていく。そこでは、神々に対して僧侶たちが経典を読む「神前読経」が繰り広げられた。
 日本古来の天神地祇の神々が、宿業によって神となったことに苦しみ、仏道に帰依して修行を申し出るとは、いかなる事態であろうか。義江彰夫の『神仏習合』(岩波新書)は、共同体祭祀から律令的神祇信仰へ移り変わる7〜8世紀当時の宗教事情を、社会・経済・政治情勢から有機的に紐解いて以下のように考察する。
 白村江の戦の大敗後、唐軍の侵略に危機感を抱いた朝廷は、大王(天皇)を中心とする律令制・神祇制の二元国家体制を敷いて国内の統一を図った。畿内と地方の有力な神社を祭祀制度に組み入れ、朝廷が公認する祝部(はふりべ)を祈年祭・月次祭・新嘗祭などの国祀に参集させ、祝詞が奏上された幣帛(みてぐら)を班給するのである。祝部らは、皇祖神の霊力が宿る幣物を共同体に持ち帰り、村々の神社とそこに集う人々に付与し、種籾に混ぜ播種を行うことで五穀豊穣を祈った。
 当初、幣帛班給のシステムはうまく機能していたが、8世紀後半には幣帛拒否の神社(祝部)が現れるようになり、制度の存続が困難になる。このため朝廷は延暦17年(798)、畿外の神社に対しては、各国の国司が幣帛を班給するように制度を変更した。国司には、伝統的な氏族的血縁関係を基盤とする豪族や富農などの有力者が任命され、祭祀を司る国造を兼務し宗教的な捧げものの調(みつき・税)による貢納を行ったが、朝廷はこれを地方支配の根幹とした。

藤原武智麻呂像(榮山寺蔵)

 「律令国家の組織力で田畑の開発が推進され、生産力が飛躍的に上昇してくると、村野内部に富の余剰が生じて、自然と富を蓄積した富裕層が現れてくる。これらの層(郡司、村長など)が、私財を蓄積したやり方は、神を祀る立場を最大限利用し、収穫の一部を神に対する初穂として取得するという方法であった。そして急速にその蓄積は進行した。その結果、神と村人のために仕えるという彼本来の任務が形骸化し、祭りは彼の私腹をこやす手段に転落してきた。当時の地方支配者たちは、共同体的司祭者から、私的領主に生まれかわろうとしていた。これまで彼らが崇めてきた神々は、このような個人的な悩みとは無縁の神々であった。人間の欲望にもとづく罪業について思索し、これからの解放を最大の目標とする仏教は、彼らに救いの道を開くものであった。その心情を神々に仮託する方法により、彼らは救いを得ようとしたというのが、神身離脱という現象を引き起こした原因である」
 義江の考察は明快で理路整然としている。朝廷は神宮寺の出現に大いに戸惑いを見せるが、最終的には創建を公認し、これを取り込むことで租税収取の機構存続を図ったと分析する。納税という経済の基本の変化が文化を変えたという、下部構造が上部構造を変えるマルクス主義的な解説ではあるが、分かりやすい。神々の悩みは豪族たちの人間としての悩みの反映だという。共同体の宗教である神道では、個人の気持ちは後回しにされがちだが、インドや中国で鍛えられた普遍宗教である仏教には、それに応える歴史と内容があった。
 気比神宮は、福井県敦賀市曙町・越前国一宮で旧社格は官幣大社である。創建は、大宝2年(702)、祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)をはじめ、仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・玉妃命・竹内宿禰の七柱を祀る。
 敦賀は太古より朝鮮半島や大陸との海路の要所で、大和政権は、彼の地を特別に重要視し当社を格別に崇敬した。『日本書紀』によると神功皇后摂政13年(375)、誉田別尊が立太子の時、武内宿禰と越国に行幸し「氣比の神」と名前を交換したとあり、両者の関係の深さを物語る。
 氣比の神は渡来神・天日槍と同神説があるが、その子孫である神功皇后が気比神宮に祀られるのは偶然ではないという。神宮寺創建の実際は、遊行僧泰澄の関与が指摘されるが、古代国家の揺籃期、海を越えて上陸した仏教という異文化は、民間レベルで受容され「神仏習合」というシンクレティズムをもたらした。北陸の表玄関を鎮護する気比神宮の大鳥居は、玄界灘を臨む形で今もなお悠久の時を刻み鎮座している。
(2022年5月10日付 787号)