『本居宣長』小林秀雄(1902〜83年)

連載・文学でたどる日本の近現代(27)
在米文芸評論家 伊藤武司

 

63歳からライフワーク
 小林秀雄は明治35年、東京神田に生まれた。2年下の妹にクリスチャン作家・随筆家の高見沢潤子がいる。文芸評論家、編集者、音楽や美術・哲学の批評家とされる小林は、社会時評や紀行文、フランス文学の翻訳書もある。対談や講演もよくし、大学では日本文化を講じ、骨董鑑定や古典音楽への造詣も深かった。
 青春期に詩人中原中也やアルチュル・ランボオと邂逅。高校ではドストエフスキーを読みあさった。中原の愛人との同棲は、小林の痛い記憶になったろう。中原は青春賛歌『山羊の歌』を出すと夭逝、第二詩集『在りし日の歌』の発刊は小林が支えた。『ランボオ』論で「ランボオの出現と消失とは恐らくあらゆる国々、あらゆる世紀を通じて文学史上の奇蹟的現象である」とその感激を極印し、訳詩集『地獄の季節』を発刊。『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』などドストエフスキーの批評家としても格別な存在となった。
 63歳でとりかかった長編評論『本居宣長』(新訂 小林秀雄全集第13巻)は小林のライフワークで、別巻『本居宣長補記』を77歳で刊行した。冒頭で、若い小林が『古事記傳』の質問をしようと折口信夫を訪ねる。別れぎわ折口は「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ」と語り、それ以降、小林の脳裏には「宣長という謎めいた人が、私の心の中にゐて、これを廻つて、分析しにくい感情が動揺して」こまねく。
 ある朝、急に宣長の故郷・松阪へ旅立つ。宣長の墓には「山櫻が植ゑられ、前には─本居宣長之奥墓─ときざまれた石碑が立てゐる」。宣長は死の一年前の遺言で、墓の設計から石碑、葬送の式まで細かい注文をしていた。「遺言書といふよりむしろ獨白であり」「思想の結實」としての「最後の述作と言ひたい」とし、墓に山桜を植えてほしいとの文面にも引かれた。一万首の歌を詠んだ宣長は、ことのほか山桜を愛で、桜ばかり300首を詠った『まくらの山』がある。戦時中、戦意高揚に使われた「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花」は決して体制的なものではなかった。
 プロレタリア文学の全盛期、小林は懸賞論文『様々なる意匠』で文壇デビュー。小説家が創作で己の意思や思想を表現するように、批評家も、孤独な単独者の業を目指すと表白する。「私には常に舞台(=小説)より楽屋(=評論)の方が面白い。この様な私にも、やっぱり軍略は必要だとするなら、『搦手から』、これが私には最も人性論的法則に適った軍略に見えるのだ」と新しい評論を提示した。初期の評論『志賀直哉』、連続文芸評論『アシルと亀の子』、芥川論、『横光利一』論から、次に古美術・近代絵画・音楽・思想や人物論に思考の領域を広げ、近代批評学という新ジャンルを創造した。
 『ドストエフスキイの生活』『モオツァルト』『ゴッホの手紙』『私小説論』『作家の顔』、近代絵画の巨匠・マネ、セザンヌ、レンブラント、ドガ、ピカソの『近代絵画』、ソクラテス、常識、マンガ、良心などの論考でインスピレーションを呼び起こす『考えるヒント』など。著者にはランボオ、アラン、ヴェルレーヌ等フランス象徴主義のイメージが濃いが、戦時中に『当麻』『無常といふ事』『平家物語』『西行』『実朝』を著していた。

宣長の肉声を聞く
 宣長は早い段階から「創造的な思想家」として学問的立ち位置を固めている。江戸時代には伊藤仁斎や荻生徂徠らの儒学の流れと、契沖や賀茂真淵の系統の国学があるが、「みな己に従つて古典への信を新たにする道を行つた」。そうした一人の宣長は「書の眞意知らんが為」に『古事記』と苦闘し、最大の業績としての注釈の書『古事記傳』がなった。ただし新解釈ではない。「神代の傳説」に「見えたるまゝ」「自分自身が納得する為に、註釋を書いた」のだとし、他の作『玉勝間』にも「新思想を發明したわけではなし、人には容易に覗ひ難い卓見を持ってゐると自負してもゐない」と叙述。「私智を誇るのは、學問の本筋とは何の関係もない事柄である」、「古傳尊重のないところに、古學はないといふ考へ」から「身を殺して、神の物語に聞入れば、足りる」と明言した。
 小林も「私は宣長の思想の形體、或は構造を抽き出さうとは思はない。實際に存在したのは、自分はこのやうに考へるといふ、宣長の肉聲だけ」であり、「私の仕事の根本は…宣長の遺した原文の訓詁にあるので、彼の考への新解釈など企てゝゐるのではない」と私見をはさまない。多くの引用文は解説の為ではなく、原資料に相対・密着し、古道の研究に邁進した宣長の学問に対する考え方や人物像をとらえんがためである。
 宣長には、文献学者の位相と古代主義に反対する「天才的伝統主義」の二面性があった。天照大御神が太陽であると信じた古代人そのままを受けとめ、事の道理を「極めて自然に考へた」のだが、その精神は、「古き書の趣」をくみ、「如何に生くべきかという道であった」。「道」とは「己を知る道」で、歌を詠み古学の研鑚に励む宣長には「道の事も歌の事も」混然と分かちがたい。小林は、記紀や源氏を研究した宣長を、批評の形式で論考していく。宣長の「道」の意味、「言霊」や「宣命」等の検証、また、歌論『排蘆小舟(あしわけをぶね)』での言葉の概念を丹念に探る。
 宣長論は、近代的学問による考証ではない。契沖、仁斎、真淵、徂徠らの古書研究者たちの「努力に、言はば中身を洞にして了つた今日の學問上の客観主義を當てるのは、勝手な誤解であると手厳しい。「やまとごころ」「古意(イニシへココロ)」についての宣長の考察も興味深い。源氏や新古今が「やまとごころ」、その対語である「からごころ」は中国の文学で、上古の時代は話し言葉しかない「言霊」の世界である。人々の慣れ親しんだ「古語(イニシヘゴト)」の中に外の世界から漢字が入ってきた革命期が記紀の時代。つまり「口承のうちにゐきていた古語が、漢字で捕へられて、漢文の格(サマ)に書かれると、変質して死んでしまふ」のだ。「話される言葉しかしらなかつた世界を出て、書かれた言葉を扱ふ世界に這入る、そこに起こつた上代人の言語生活の異變は、大變なものだつたであらう」と小林は主張する。
 小林は時代的状況から一つの結論を出す。古代の「日本の歴史は、外國文明の模倣によつて始まつたのではない。模倣の意味を問ひ、その答へを見附け」、複雑な「文體(カキザマ)」を「訓法(ヨミザマ)」で判定するという「日本語に關する、日本人の最初の反省が『古事記』を書かせた」。「古學の大事は、方法よりむしろ決断にある」「宣長はさう見てゐた」と。こうして上代人の心のうちを知るには、「書かれた言葉を扱ふ世界に這入」り、その内奥を覗くのが最上という確信が宣長をうごかし注釈を決断させた。筆を起こしてから35年、宣長の『古事記傳』は、漢字を借りて書いた上代の書を、なんとか日本語で表現したいと「訓法の事」、いわゆる「漢文の訓読み」という独創的な方法でうみだした苦闘の結晶なのだ。
 こうして宣長の学問は日本古来の「大和心」を根底に当時の知識人の漢字文化、「漢心」を排したところに成立した。「から心から清くはなれよ」とは師・真淵の教えでこれを下支えしたのが源氏や萬葉などの歌の体験であった。

批評は自己を語る事
 京都で医学を学んだ宣長の本職は外科医。かたわら、神道、仏教、和歌、儒学などに興味を抱き、徂徠、契沖、真淵に啓発されて国学を志し、門弟に歌や学問を教えた。35歳で会った真淵を学問の師とし、5年間、手紙で交流した。「萬葉」「源氏」の「古言(フルコト)」が分かるためには「先づ古歌や古書の在つたがまゝの姿を、直かに見なければならぬ」としつつ、「あるがまゝの人の『情(ココロ)』の働きを、極めれば足りる」と説く。原文の文體を大切に観察すれば真の姿が浮かび上がるというわけである。
 有名な「もののあはれ」の論究に触れよう。小林は、和歌や源氏物語について語る宣長が、「互いに歌を詠み交はす」紫式部の「一大王朝物語」を「歌物語」「夢物語」と呼んでいる点から、「物のあはれ」という日本的情緒の遍在性を「感知」していたという。源氏について宣長の課題は「物のあはれとは何か」ではなく、「物のあはれを知るとは何か」であったとし、宣長は「物のあはれを知る道」を語った思想家であった、と結ぶ。
 こうして「ものゝあはれ」の座標軸を得ることで、宣長は「相手を難ずるといふより、むしろ自分を語つてゐる」と洞察。そして源氏物語や新古今集をほめちぎる宣長に接し、「宣長は、源氏を研究したといふより、源氏によつて開眼したと言つたほうがいゝ」と叙述。宣長の学問の跡を心理的推移から読みこむ技量は、小林ならではである。ここに宣長の学問・人柄・生き方との自己同一化もうかがえる。上古の時代に「古人の身になって」接した宣長のように、先入観を捨て、己を重ね「宣長の眼」をもって追体験する筆者が新鮮である。
 『源氏物語玉の小櫛』は67歳の作。武士の儒教倫理が主軸であった江戸中後期、漢文学を先導した林羅山、荻生徂徠ら儒家が、源氏を好色的と排斥する中、物語の根底にある「ものゝあはれ」を唱えた。その基本は眞淵に入門する以前に成り、「萬葉」研究で国学史に名を残す契沖が同様の説であった。源氏論を仔細に展開する小林は「ものゝあはれ」の言葉はすでに人々に知れわたっていた「上ツ代」に、宣長の心は「あはれ」の一語に感動し「ものゝあはれ」が「はち切れてゐる」と明察した。
 大作のしめくくりは、「もう、終わりにしたい。結論に達したからではない」としめくくる。本論冒頭のように終わり方もまた印象的である。

東慶寺に小さな五輪塔
 小林は、近代的教養の半面、形而上世界にも関心をもった。モーツァルトという「おどろくべき神童」の素顔をつかむため、己の「耳を信ずる」ことから出発。肖像画を傍らに過ごしていた夕べ、突然、耳元で旋律が鳴りひびき「脳味噌に手術を受けた様に驚き、感動で慄えた」。弦楽五重奏曲4番の憂愁の調べを「かなしさは疾走する。涙は追いつけない」の名言に凝結させ、傑作『モオツァルト』が誕生した。
 随筆『感想』には母親が亡くなった時を回顧し、死亡の数日後、夕暮時に「今まで見た事もない様な大ぶりの」一匹の蛍の飛ぶ様子に「おっかさんは、今は蛍になっていると」思い、泥酔して駅のプラットフォームから転落して奇跡的に助かった時も、「母親が助けてくれた事がはっきりした」と超自然的体験談を語る。
 72歳の講演『信ずることと知ること』では、心霊研究家ベルグソンや民俗学の柳田國男の神秘的体験、オバケや霊魂の話しに敏感に反応。理智的知性とは別個に、未知の超常現象やフロイトの「夢判断」に親和性を示すのはまことに面白い。
 三島由紀夫は小林を芸術家と評し、大岡昇平は「人生の教師」と看破した。湯川秀樹との『対話・人間の進歩について』や岡潔との『人間の建設』で、専門の違う数学や理論物理学の天才たちと人間の精神の内奥を自在に語り合う姿に「才能」を感知している。山本七平は羨望の心で「超一流の生活者」と評した。
 政宗白鳥との「思想と実生活」論争は半年間、激論の応酬となった。終戦後早々、講演を基にした評論『私の人生観』では、戦後デモクラシーに盲従する同時代の人々に警鐘を鳴らした。明治以降の西洋文化の総括と超克を試みた「近代の超克」論議に参加。「批評の神様」と評され、昭和42年に文化勲章を受章、80歳で永眠した。
 鎌倉の東慶寺の一角に小さな五輪塔が鎮座している。それを見ると、あの世とこの世を仕切る「千引岩」を軸に、人間の死生観を熱っぽく語りだした『本居宣長』の筆者の姿が心をよぎるのである。
(5月10日付 787号)