聖徳太子における神仏習合
2022年5月10日付 787号
神仏習合について考えていたら、神道国際学会の三宅善信理事長から、『聖徳太子思想の中心にあった神道』(神道国際学会鼎談シリーズ1、2017年)が送られてきた。開いて目に飛び込んできたのは、法隆寺管長(当時)大野玄妙師の「聖徳太子という人は仏教徒…と認識している日本人がほとんどですが、…それ以前に聖徳太子は皇太子であるという大前提を皆さん飛ばしている」との発言。その通りで、王家の歴史として当然すぎるので、つい見落としていた。
皇太子として祭祀を
太子は日常的に、皇太子として祭祀を行っておられたのである。その生活感覚から、渡来の仏教を受容した。普遍宗教である仏教の、日本人の心性に合う部分だけを選択的に受容した、というのが一般的な理解だが、実際には、日本人の心性を仏教に触発され、豊富な仏教用語を使って表現したのが神仏習合だったのではないか、と思う。貴重なものは海の向こうからやって来るという島国の経験から、仏もより強力な神としてとらえ、受け入れたのだろう。排除の思想はごく一部だった。
大野師は「皇太子の仕事は…皇祖神を敬い祀り、あるいは山や川、土地の神々(天神地祇)を敬い祀って、世の中がうまく調和の取れた世界になってほしい。その願い以外に天皇家の仕事はないと言っても過言ではない」と話を続ける。
そもそも共同体の調和・協力のツールとして生まれたのが自然宗教としての神道であるから、それ以外の選択肢はない。崇神天皇の御代に疫病が流行り、その原因が皇祖神の天照大神と土着の神の大物主神を一緒に祀っていることだと分かると、皇祖神のほうを伊勢に遷し、大物主を三輪山に祀ることで鎮めたほどで、これは仏教渡来以前の話である。宗教の変化に疫病がかかわるのは以後も続き、仏教立国の概成者とされる聖武天皇の大仏造立も、疫病の大流行が大きなきっかけだった。だとすれば、今のコロナ禍に宗教者たちは大いなる期待で向かうべきだろう。
死をめぐる思索が宗教発生の主因であることは、柳田国男の『先祖の話』にある通りで、先祖観は宗教心の核心にある。大野師は「仏教の説く浄土観と日本人の感じる先祖観とが、聖徳太子という一人の人格を通じて、結び合っている。それが、日本の宗教観となって、現在に至るまで連綿と続いています」と述べる。インドでは遠い西方浄土だが、日本では裏山のように近い浄土観に変わったくらいで、それを結び付けたのは、まさに太子の人格、感性である。その恩恵に、今の私たちも浴している。
では、法隆寺に神仏習合のしるしはあるのか。大野師の「実は、鳥居はお寺(法隆寺)の中に何か所も祀っております」との言葉に驚かされる。大野師は「神仏霊場会」にも2008年の発足当初から加わっていた。それが太子の心だからだろう。
明治初めの神仏分離令については、「早く欧米に追いつかないと大変なことになると、…そのために生み出されたのが、いわゆる国家神道で、天照大神を中心とした信仰対象の一元化でした。それを進める際、最大の強敵は国津神を祀っている各地の神社なので、…神仏分離令の一番の被害者は神社そのものだった」と解説する。崇神天皇の御代とは逆で、南方熊楠が嘆いたように、八百万の神々の多くが失われたのである。さらに、空海をはじめ日本人の精神性の形成に大きな役割を果たした山岳宗教を担ってきた修験道が禁止され、18万人もの山伏が辞めさせられた。
人格において
インドの上座部仏教には厳しい戒律があったが、それが中国の遊牧民族に伝わって、戒律を「心の問題」としてとらえるようになり、その大乗仏教が日本に渡来したのも幸いだった。それゆえ、聖徳太子の「人格において」、従来の神道と無理なく融合されたのである。仏教の最終ランナーである密教の教理が空海によってまとめられたように、仏教は日本という風土で、初めてその理想を実現させたのではないか。
バビロン捕囚という民族滅亡の危機の時代にイスラエルに生じた黙示思想に源流を発する排他的な思想が、理不尽な他国への軍事侵略として世界を混乱させている今だからこそ、先人たちの叡智と経験に学びたいと思う。