登呂遺跡
2021年8月10日付 778号
静岡市にある弥生時代後期の登呂遺跡を見学した。発見されたのは戦時中の1943年で、竪穴式住居や高床式倉庫、田んぼの跡が見つかり、戦後の発掘で「平和で素朴な米づくりの村」という日本社会の原像が明らかになって、敗戦に打ちひしがれた日本人に希望を与えたという。
天地子も米づくりをしているので、今とほぼ変わらない水田耕作の跡に歴史のつながりを感じた。水田域は約10ヘクタールで、その中央に幅2・5メートルの中央水路が通り、平均50×20メートルの大区画の中に5×3メートルほどの小区画の水田がある。
稲作で一番苦労するのは雑草対策で、田植え後に水を張ると雑草の発生を抑えられる。そのためには灌漑設備と平坦な田んぼが必要で、登呂遺跡では水路やあぜを地元でとれる大量の杉板で補強していた。
住居は約20軒で、田んぼは1戸当たり平均5アール。家族は3アールで養い、残り2アールの米は交易に使われていた。吉野ヶ里遺跡のような集落を取り囲む環濠はなく、武器も出土していない。豊かなので他の集落を攻めることはしなかったのだろう。縄文時代は平和だったが、弥生時代に富が蓄積されると争うようになった、という古代史の説明は地域的に見直す必要がある。
天地子の集団営農も、父親たちが昭和40年代の構造改善事業で田んぼを大きくし、水路を整備したことで大型機械の導入が可能になった。そうした営みの原点を登呂遺跡に発見し、嬉しくなった。