8年かかったアフリカ医療伝道の準備
連載・シュヴァイツアーの気づきと実践(25)
帝塚山学院大学名誉教授 川上与志夫
1500年代の大航海時代に入ると、ヨーロッパ諸国による植民地争奪戦は熾烈なものになっていった。先鞭をつけたのがスペインとポルトガルである。ヨーロッパではその頃、国家間の領地や統治が安定していなかったが、どの国も世界への進出の意欲はすごかった。彼らは自分たちを知性に富んだ文明人と誇り、アフリカやアメリカやアジア諸国を原始的で野蛮な国とみなし、それらの地を統治・支配するのは当然の権利と思っていた。
スペインの動きを見るだけでも、目を覆いたくなるすごさがある。1521年にアステカ帝国(メキシコ)を、1532年にはインカ帝国(南米)を滅ぼした。さらに1600年前後には、中南米、アジア、アフリカの各地を植民地化していった。東南アジアで植民地化されなかったのはタイだけだったという。原住民は野蛮人として、鉱山や農場などで重労働を強いられた。劣悪な環境で奴隷のように働かされた彼らの多くは、ばたばたと死んでいったという記録が残っている。初期の植民地政策は、まったく無謀で残酷だったのだ。
ヨーロッパ諸国によるアフリカ植民地の分布図を、ざっと見てみよう。
ポルトガル:アンゴラ、モザンビーク、ギニア。スペイン:西サハラ、赤道ギニア。イギリス:エジプト、ケニア、スーダン、ザンビア、ナイジェリア、南アフリカ共和国。イタリア:リビア、エチオピア、エリトリア。ベルギー:コンゴ民主共和国。ドイツ:カメルーン、ルワンダ、タンザニア、ナミビア。フランス:アルジェリア、チュニジア、モロッコ、マダガスカル、ギニア、ガボン、コンゴ共和国、中央アフリカ共和国。
これらの植民地化された国々は、第二次世界大戦後の1960年に、国連の指導により独立国家に生まれ変わった。シュヴァイツァーがアフリカの原住民たちの悲惨な生活環境に目を留め、医師としてアフリカに渡ったのは1913年、38歳のときである。アフリカ行きを決めたのは1905年の1月、30歳の誕生日のこと、植民地の隆盛時代だった。
暗黒大陸であるアフリカで、現地人から搾取する商人や事業家はいても、彼らに奉仕しようと決意する人などいなかった。だからシュヴァイツァーの決意は破格であり、親族をはじめ、先輩や友人から猛反対された。まさに全ヨーロッパの反対を押し切って、彼は医学部への再入学に踏み切ったのだ。愛する音楽と神学の学びを続けながらの、医学の学びである。彼は3時間しか寝ないで、7年間がんばった。そして、アフリカ行きの雑事にもかかわり、合計8年間の準備の末、念願のアフリカ医療伝道におもむいた。
一般的に考えれば、彼は大きな犠牲(学者や音楽家としての地位)を払うことになったのである。彼自身は、「悩み苦しむ人に奉仕するのは、恵まれた者に課せられた義務である」と言い切っている。彼は嬉々として、イエスの愛の教えにしたがったのである。
(2021年7月10日付 777号)