「生命への畏敬」への道行き
連載・シュヴァイツアーの気づきと実践(22)
帝塚山学院大学名誉教授 川上 与志夫
「生命への畏敬」という言葉が思い浮かんだとき、シュヴァイツァーは興奮した。これこそヨーロッパで力を失ったキリスト教倫理を立て直す思想であり実践である、と確信したのである。彼は夢中になって、「生命」と「畏敬」という言葉に秘められた内実と実践との関係について、深く考えていった。
キリスト教倫理の根幹は「隣人への愛」である。シュヴァイツァーは「隣人」を「生命」に、「愛」を「畏敬」に転換したのである。それにはそれなりの確固とした理由がなくてはならない。2千年も受けつがれてきたキリスト教会の教えに敢然と立ち向かったのである。並大抵のことではない。命がけの作業である。
生命への畏敬についてはすでに説明したが、大事なことなので別の角度から復習することにしよう。生命に当たるドイツ語(Leben)や英語(Life)には、命のほかに、生(生きること)、生涯、生活、寿命、生気、大事な物事、などの意味がある。すなわち、日本語の「生命」ではそれを十分に包み切れない。シュヴァイツァーの思想に近いのは「いのち」と「生きること」にあるので、私自身の理解に基づき「生(命)」と表記する。
「愛」は4つに分類されることが多い。神の愛、親子や親族間の愛、友情というタイプの愛、そして愛欲である。隣人への愛が、神の愛に近いものであれば問題はないが、人間の愛はいたって利己的であり、移ろいやすい。シュヴァイツァーのいう「畏敬」は、生きているいのち、よりよく生きようとしているいのちの尊厳の前に跪き、そのひたむきな姿を慈しまずにいられない姿勢である。
「隣人」に関しても問題がある。イエスの教えた隣人は、聖書の「良きサマリヤ人」のたとえにあるように、すべての人、すなわち、たまたま出会った人をも含んでいる。しかし、われわれの実際の生活の中では、隣人は自分にとって都合のいい人に限られている。現に、都会では隣に住む人と付き合いがなく、それがどんな人かも知らないことが多い。隣に住んでいても、隣人ではないのである。信仰者といえども、人は「隣人への愛」からは遠い生活を送っているのが実情だ。だからこそ、「キリスト教倫理は力を持たなかった」のである。
シュヴァイツァーは力説する。「わたしは生きようとしている。よりよく生きようとしている。わたしの周りのすべてのいのちが、よりよく生きようとしている。わたしたちは同じ生き物なのだ。だから、他のいのちを傷つけたり、殺めたりしてはならない。できるかぎり、他の生きようとするいのちに奉仕しなければならない。生きようとする意志を助長するのが善であり、その意思を阻害するのが悪である。」
思想は実践されなくては意味を持たない。シュヴァイツァーは自ら編み出した「生(命)への畏敬」の実践に踏み出した。創設者の喜びと苦しみを味わいながら、彼は忠実に熱意をもって、日常生活の中で新しい倫理を実践した。「生(命)」を大切にする美しい思想であり、実践である。しかし、それにも限界点があり、問題点があった。
(2021年4月10日付 774号)