『山椒魚』井伏鱒二(1898〜1993年)

連載・文学でたどる日本の近現代(17)
在米文芸評論家 伊藤武司

繊細で洒脱な人
 一流作家として一家をなした井伏鱒二は、その風貌もさることながら、繊細、かつ洒脱で茶目っ気たっぷりな人だった。なかなかの苦労人で、人間的な魅力もふんだんにもっていた。
 『山椒魚』は軽妙な作風と巧みな描写が堪能できる寓話小説の一級品。井伏文学の処女作で、創作の原点とされている。井伏がひとかどの作家として知られるようになると、読者はきまって、ユーモア、笑い、軽み、寂しさ、憎めない茶目っ気などに共鳴し、作品と人物に親しみを抱く点が目をひく。直木賞と芥川賞の選考にも長くたずさわった。
 大学生のとき、井伏は『幽閉』という名で創作していた。原型を同人誌に発表したのが大正12年。ロシアの劇作家チェーホフの作品からヒントをえたという。昭和2年、手をくわえ『山椒魚』と改題。昭和4年の同人誌への掲載で今日の基本型になり、短編集『夜更けと梅の花』に収められた。
 読者が心ひかれるのはタイトルといえ、創作の題目はきわめて大切である。唐代の詩人の五言絶句「勧酒」の結句を「サヨナラダケが人生ダ」と絶妙な訳で一躍有名にしたのは井伏の実力であった。
 山椒魚を表題としたのは、旧制中学の校内で飼育していた山椒魚に餌をやったことがあるからで、自身がとても面白い生き物だと述懐している。一匹の両生類をとりあげた作者の洞察眼は鋭く、物書きの次に絵や魚釣りを愛した井伏は、自然と人間をよく観察する作家であった。物語の叙述の推移から、小説に登場する生き物は、日本特産のオオサンショウウオを想像させる。
 短編『山椒魚』の面白さは、滑稽さの中に人生の諸相をつめこんでいることにある。微妙に変化する主人公の心理や感情の襞の内面を探ることがポイントである。ストーリーを展望してみよう。先頭を飾る「山椒魚は悲しんだ」という文言は、名作を予感させる一節である。象徴的な冒頭文に、青春期の作者に何事が起きたのかと興味をかきたてられる。
 この小品は、人間社会の現実を一匹の両生類に託し、生の哀歓を風刺的・抒情的に語らせた擬人的な寓話と形容できる。社会を概括した人生論という見方もある。暗喩に多様な意味合いがこめられ、トボケタ面白さが横溢している。「山椒魚は悲しんだ」のである。なぜならばここ2年間心地よく慣れ親しんだ穴倉に棲みついた山椒魚は、うっかり油断して、頭が大きくなりすぎ、穴からでられなくなってしまったからである。文字通りに自由を奪われ「幽閉」されたのである。この段階から、ジレンマに落ちた嘆き節が、最終まで綿々とつづられる。もっともまことにさりげなく巧妙なしかけがほどこされている。
 最初のぼやきは「何たる失策であることか!」で、自責の念にかられる。やがて体には岩苔が生え、岩屋の天井にも苔が繁殖し、水が汚れてくる。彼はそれを嫌った。
 しかし、彼のできることは、岩穴に顔をくっつけて外の光景を眺めるだけ。谷川の急な流れが川のよどみに注ぎ、水中に生えている一群の藻が、一直線に伸びながら左右に揺れている。彼には好ましい景観で、飽かずに見とれていた。固定された岩穴の世界と、流動する水との対比が物語を印象づける場面である。
 しばらくして数匹のメダカの一群がやってくる。藻に身をすくわれ、行動の自由が制限されるのを山椒魚はまじまじと見て、思わず己の境遇を忘れ、「なんという不自由千万な奴らであろう!」とつぶやく。藻や流れに翻弄され、左右によろめく小魚の群れを冷ややかに注視している様か、小回りのきく若者たちを揶揄しているとも考えられる。
 ある夜、腹に卵を一ぱい抱えた一匹の小エビが岩屋にまぎれこみ、山椒魚にとり付いて卵を産みつけようとした。ここでも、虫けら同然の小エビの行動を「莫迦だ」と嘲笑する。ストーリーの最初は余裕をみせる山椒魚だが、次第に自身が追いつめられてゆく。
 本心では岩屋から出たい一心の彼なのである。「今は冗談ごとの場合ではない」と吐露し、ある日、一息に岩穴から脱出しようと突進してみる。が、頭が出口にはさまって、引き抜くのに大変な思いをしてしまった。その様子を小エビが眺めている。小さく弱い生き物を軽蔑した彼が、小エビに失笑され、大いに恥をかいてしまうのだ。その後も外に出ようと試みるも失敗。とうとう山椒魚は涙を流しながら、こうした境遇においた神の仕打ちが、「横暴すぎるといって」悲運をなじり、気も狂うほどになる。
 「どうして私だけがこんなやくざな身の上でなければならないのです?」と嘆息することしきりである。様変わりする心理が叙述されると、イマジネーションがかきたてられるだろう。作品の世界は、川の流れも、岩穴も、岩苔も、メダカ・エビ・水すましなどの生き物たちも何物かを象徴しているのだ。
 次のシーンでは一匹のカエルが出現する。カエルが水中を自由自在に泳ぎ回るさまを「感動の瞳で眺めて」羨ましくみとれていた。しかし自分の身に降りかかったふがいなさが悲しくなり、「自分を感動させるものから、むしろ目をそむけた方がいいということに気づき」目を閉じたまま開けようとはしなかった。自由でいられるカエルとは対照的に、「ブリキの切屑」のようなみじめさを感じるばかりだったからである。
 さらに二匹の水すましが出現したり、第三者の語り手が山椒魚の現状の批評や解釈を始める。山椒魚は自分が愚か者と思われることを嘆き、「ああ、寒いほど独りぼっちだ!」とすすり泣く。山椒魚の語り手は、「諸君は、この山椒魚を嘲笑してはいけない。すでに彼が飽きるほど闇黒の浴槽につかりすぎて、最早がまんがならないでゐるのを、了解してやらなければならない」と擁護する。
 そこに再び例のカエルの登場である。ここから流れが変化し、山椒魚はカエルに悪だくみをはかり穴倉に誘いこむ。長く孤独と絶望にさらされていた山椒魚に、恨みや悪意の心根が芽生えたのである。まんまとカエルを岩屋の中にとじこめることに成功し、「痛快」だと得意げな山椒魚である。しかし、どう考えても自己満足でしかなく、自由を束縛されている状態に変わりはない。しかも一人ではなく二人での「幽閉」となったのである。
 それ以降、狭い岩屋で喧嘩口論が絶えない。意地を張りあい、相手を罵倒する日々となった。1年がながれ初夏が来ても、岩屋に孤立した二人の言い争いが収まることはなかった。さらに次の一年が経つと、喧嘩はもはや見られず、嘆きの声が、相手にわからないように、息を殺し、沈黙がひっそりと広がるばかりであった。
 最後に大きな転機が訪れる。カエルが発した悲哀の一声が山椒魚に聞こえた。「ああああ」と。これを聞きつけるや、山椒魚は友情の思いをこめてカエルに話しかける。同じ運命の中におかれた両者に和解と融和の時が迫ってきた。「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」と相手を思いやる暗示的な一文をもって小説は終了する。

国語教科書に採用
 『幽閉』と『山椒魚』との関係に触れなければならない。いかに努力しても人生は決まっていて、どうにもならない実感を『幽閉』に盛りこんでいるとの示唆がある。大正末から知識人に広がった倦怠ムードを背景に、その観念をテーマにした短編だという解釈である。
 『幽閉』には、「たうたう出られなくなってしまった。斯うなりはしまいかと思って、僕は前から心配してゐたのだが、冷たい冬を過ごして、春を迎えればこの態だ! だが何時かは出られる時が来るかもしれないだろう」と続いている。主体は「僕」の山椒魚であり、当時の社会状況に抵抗の精神をこめたという。そして、冒頭の一節をそのままに、小説の語り口など形式と内容を全面的に改稿し異なる地平に書き起こした小説が『山椒魚』になったのである。誕生した小作品を井伏はいく度も推敲している。彼のこうした思いいれとこだわりに、青春の記憶が忘れがたい残像となったことは論を待たないだろう。
 同時期に、評論家の小林秀雄から高く評価された短編『鯉』がある。白い色の大きな鯉に託して、青春時代に深い絆を結んだ無二の親友の死を悼む心象風景を鮮やかに、擬人化が見事な佳作である。また一羽のガンの物語『屋根の上のサワン』の抒情的一文が昭和4年に書かれた。巧みな筆さばきのストーリーで、これら初期の作品が井伏文学の基盤である。昭和初期、自己表現の方法として擬人化や比喩により対自然・生物そして、対人間への想いをこめて創作に励んだ。
 日本の作家は、何らかの形で自己を作品の中で語ることが少なくないが、中でも巧妙に脚色できる才能が井伏にはあった。『山椒魚』に次ぐ名作『さざなみ軍記』もこの傾向を備えている。それぞれ中断も含めて10年を費やし、作者の創作スタイルの一つとなった。
 井伏は早くから画家を志すが断念。大学も中退し、身の振り方が定まらず鬱々としていたなか、同人雑誌に習作を書き始めた一つが『幽閉』であった。
 29歳で結婚し、東京府豊玉郡井荻村に永住の拠点を構えたのが昭和2年。雑木林や緑の原野に田畑が広がり、武蔵野の趣きが色濃くあった。荻窪・阿佐ヶ谷界隈に文学青年や文士たちが集まるようになった背後には、井伏の存在が考えられる。自身の半生と交遊関係をまとめた自伝風の随筆が84歳の時の『荻窪風土記』である。
 井伏が若いころ、文芸の世界では、自然主義に代わって新しい文学思潮が勃興してきた。小林多喜二、徳永直などプロレタリア作家がもてはやされ、多様な文学運動が大正末から昭和初期にかけ隆盛する。とはいえ、文士のイメージは社会から尊敬されるようなものではなかった。
 仲間たちが次々と左傾化していく中、彼の心中は複雑であった。改題した『山椒魚』も時流にはそぐわない内容で、左翼文学運動の渦中で小ばかにされたり、取り残されてゆく孤独感などで大いに悩み、翻弄されたのである。一時は代々地主だった故郷の広島で、農民になる可能性もあったという。
 閉塞感と寂しさに耐え、創作修行を積んだ井伏は、やがて己の文学的個性を確立し、作家を一生の仕事とすることに成功する。人生とは不思議なものである。ひとたび作品が注目されると、『屋根の上のサワン』も含めて国語教育の教材に用いられ人気を博した。
 井伏の文芸活動は『山椒魚』を起点に、直木賞受賞の『ジョン萬次郎漂流記』、名作『さざなみ軍記』『本日休診』『集金旅行』『多甚古村』『珍品堂主人』『遙拝隊長』へ続く。
 いずれの小説も派手さをひかえ、どこにでも見かけるような庶民の人情や哀歓を暖かい目でつむぐ穏やかな色調といえる。人の幸不幸、悲しみや喜びの機微を充分に知る作家の堅実さが持ち味である。

『黒い雨』
 昭和40年代初期、井伏は広島の原爆を主題にした長編小説『黒い雨』を刊行。同時期には、型破りな生き方をした野坂昭如の短編『火垂るの墓』もある。被災した人びとや子供たちの痛ましい死が共通し、戦争の悲惨さを思い知らされる。『黒い雨』の読了後、身につまされたのは、知人に被爆二世がいるからだ。
 一時、井伏は盗作のそしりを受けたが、本人のコメントに接すれば氷解するだろう。原爆から奇跡的に生き残りながらも、不気味な黒い雨にうたれ被爆した一家族の軌跡を描いた記念碑的作品である。重い内容を扱いながら、感情をおさえ、辛いはずの日常を淡々と書ききる井伏の筆力には目を見張るものがある。
 生前、井伏は太宰治と公私にわたる師弟関係をもっていた。無名の学生時代、『山椒魚』を読んで感激した太宰が弟子になったエピソードがある。死ぬ前、太宰は井伏を悪者呼ばわりしたが、それはお門違い。井伏ほど太宰の欠点を知りつくし愛した人はいない。不祥事の絶えない太宰の結婚には媒酌人まで務めた。そんな人間性は一朝一夕に築けるものではない。時代の風波にこびることもなく、どこまでも自然体を通し、明治から平成まで95年の生を踏んだ井伏であった。
 第三の新人、安岡章太郎も幾多の薫陶を受けた一人である。人間性にもことのほか惹かれたという。井伏ファンは作品を鑑賞しながら、いかにも小説家らしい人となりにも接するわけで、これほど読者冥利につきることはない。
(2021年4月10日付 774号)