黒住宗忠(中)

連載・岡山宗教散歩(26)
郷土史研究家 山田良三

布教の始まり
 黒住宗忠は「天命直授」で得た天照大御神との出会いを「天照大御神と同魂同体になった」と理解し、後に弟子たちに「自分だけがこのような恵みを受けて、他の人に恵まないというのは、天照大御神の御神意に背くことだろうと考えた」と語っています。この体験をもとに人々に話し聞かせたのが布教の始まりでした。
 「天命直授」から間もないある日、お手伝いに来ていたみきという女性が腹痛で痛がっているのを見て、お腹に手をかざし息を吹きかけ、いわゆるまじないをしてやると、痛みがすっと消えたのです。この不思議な体験をして喜んだ彼女に宗忠は「天照大御神様が治してくださったのだから、天照大御神様に感謝しなさい。私が治したなどとは言わないように」と諭して帰しました。ところが近所の人に腹痛が治ったわけを聞かれ、つい嬉しくて治った経緯を話してしまったのです。するとその話が近隣に伝わり、評判になりました。
 そのころ、今村の竹通しという所で眼病が流行っていました。そこの人たちが、先生に治してほしいと、宗忠のもとにやって来たのです。最初は、「私が直したのではありません。天照大御神様が直してくださったのです」と断りました。ところが人々は熱心にあきらめず、後に宗忠の最初の門人となる、幼友達で村の名主の小野栄三郎を通して頼んで来たのです。そこで宗忠は「まじないで病をなおしてやることも天照大御神様の願われることかもしれない」と思い、「天照大御神様にお願いしてみましょう」と言って神前に祈りを捧げ、お腹に手をかざし、息を吹きかけ、まじないを施したのです。すると見えなかった眼が見えるようになりました。
 宗忠は人々の病を癒やすとともに神様の道を教え、天照大御神様の理想世界を実現することこそ、自分の役割ではないかとの思いに至ったのです。こうして、まじないとともに天照大御神の魂と一心同体になった体験を通して、神様と共にある道を広める布教が始まったのです。

最初の門人
 翌文化12年(1815)の正月に、小野栄三郎が「門人にしてほしい」と願い出てきました。「神文」を書いて決意を示し、最初の門人となりました。病気が治り良い話を聞けると聞いて多くの人が宗忠のもとを連日訪れるようになりました。
 人々にまじないを施したあと、「暗い心やとげとげしい心で暮らしてはいけません。穏やかな丸い心、明るい心で生きていきましょう。神様を心から信心して、日々を楽しく暮らせば、おかげを受けて病気も治ります」「天照大御神から賜った分心は本来完全無欠であるから、本来の姿になれば身体も完全に働くようになります。病気を治すより日々の心がけや生活を正しましょう。心の直るついでに病は治る。」「この道は病直しの道ではない。病治しは道の入り口で、心直しの道である」と教えました。
 一通り講釈が終わると最後に、ご自分の体験に基づいて、日の出を拝して、天照大御神への感謝の心で祈る日拝とともに、日の出の陽気を腹の底までいただく陽気修行を教えて、皆で柏手を打って終わりました。(黒住教では教祖が教えた日拝とご陽気修行を、大切な修行として毎日行っています)
 まじないは病でない人にも施しました。中にはまじないをしなくても、講釈を聞いただけで病気が治る人も現れました。中には岡山藩士の侍も来るようになりました。その中には学識の高い藩士もいて門人となり、教えを広めることに貢献するようになります。また講釈を聞くときは士農工商みな平等で、武士も刀を外して講釈を聞いたと言われます。
 宗忠は門人や信徒を「お道連れ」と呼び大切にしました。小野栄三郎の提案でお道連れの家に出向いておまじないと講釈をすることも始めました。
迫害や中傷
 このように人が集まってくると妬む人も出てくるものです。既存の宗教家や修験者、祈祷師などから妬まれて、悪いうわさが流されたり妨害に来る者もいました。そのことで今村宮の神主から注意されることもあり、備前で盛んな法華宗の寺院からも白い目で見られたりしました。
 あるとき、宗忠の評判を妬んだ祈祷師が、家に放火しようと松明をもってやって来たことがありました。幸い大事には至らず、祈祷師は松明を捨てて逃げたのですが、宗忠はその燃えかすの松明を神前に捧げて祈り続けました。20日後にその祈祷師が現れ、非を詫びて改心し、門弟になったと言われます。宗忠の道理の通った話と謙虚で誠実な姿は多くの宗教家や儒学者に評価されるようになり、だんだん迫害はなくなりました。

五社参りと千日参籠
 当時、宗忠は毎朝七つ(4時)過ぎには起きて、近隣の神社に参詣していました。最初は今村宮と北長瀬の白鬚宮でしたが、文政6年(1823)12月頃には吉備津彦神社(一宮)と吉備津神社、そこから庭瀬の大神宮を回る五社参りをしていました。今の距離で18キロほどの距離を、半時足らずと言いますから1時間足らずで回っていたことになります。
 文政8年(1825)から4年がかりで千日参籠をした記録があります。その途中、嫡男の宗信が重篤になったので家族が、今日だけは行かないでと止めましたが、「神様に仕える身だから」と参籠に出かけ祈祷を捧げました。すると神とともに子を思う親の心が通じたのでしょう。宗信の容態が良くなったと言われます。
 その後、月百社参りなども行いました。宗忠は伊勢神宮に6回参拝しています。皇祖神への崇敬も篤く、日々の修行や祖霊、天照大御神に仕える姿に、多くの人が敬服しました。宗忠の教えを聞き、神と共にある生活をする黒住宗忠の教えは、世間からも公からも認められるようになっていくのです。
(2021年4月10日付 774号)