黒住宗忠(上)

連載・岡山宗教散歩(25)
郷土史研究家 山田良三

黒住宗忠

身近な宗教
 岡山県民にとって黒住教はとても身近な宗教です。私が生まれた倉敷市児島から岡山市に出るにはバスで1時間余り、そろそろ岡山かなと思うころ「黒住教本部前」というバス停があり、JR宇野線大元駅を過ぎると終点の岡山です。ですから「黒住教本部前」の案内を聞くと、岡山に来たなと思ったものです。
 鳥取で学生時代を過ごした後約20年働いた関東や東北各地で、宗教関係の方達から「岡山は宗教家が多いね」とよく言われました。法然や栄西をはじめ幕末三大新宗教と言われる黒住教、天理教、金光教のうち二つまでが岡山発祥で、最初が黒住教です。
 平成3年に家族とともに岡山に還り、住んだ家の近くのバス停が「宗忠神社前」でした。黒住教本部が吉備中山の神道山に遷ったので、名前が変わったのです。宗忠神社は歩いて3分で、毎日のように散歩をかねて参拝していました。地域の人たちには氏神様のような存在で、お祭りには黒住教の信者だけでなく地域の人たちもたくさん参加します。
 毎年4月の「御神幸」は、宗忠神社から後楽園までの行程を、平安装束を纏った教主ら一行が往復するものです。春の岡山を象徴する代表的な行事で、市民に親しまれています。同僚や知り合いにも「うちは黒住教」という人が多く、黒住教の歴史や教えに興味を持つようになりました。

今村宮の社家に生まれる
 黒住教教祖の黒住宗忠は、安永9年(1780)11月26日(旧暦)冬至の日、備前国岡山の今村宮の社家黒住宗繁の三男として生まれました。黒住家が禰宜を務めていた今村宮(現岡山市北区今)は、もとは三社宮と称して、天照大御神、八幡大神、春日大神の三神を奉祀して、岡山城にほど近い榎の馬場(現北区内山下)にあり、城下の商工業者などから崇敬されていました。宇喜多直家が岡山城の城郭を拡張するに際して、今村の八幡宮に合祀されたのです。
 今村宮の氏子は三社宮の氏子に合わせて地元今村の氏子が加わり、今に続いています(春の御神幸はかつて今村宮の氏子が多くいた城下町の商店街、今の表町を通ります)。宗忠の生まれた幕末にも岡山の重要な神社の一つで、明治になり県社に列せられます。黒住家は、今村に遷宮とともに、上中野に移り住んでいました。
 備前岡山は、戦国時代の宇喜多家から、関ヶ原後に小早川家になり、その後池田家が入府して以来幕末まで、中国道屈指の大藩として栄えました。岡山池田家の基礎を築いたのが江戸時代きっての名君・池田光政で、江戸時代一の学者とされる儒学者熊沢蕃山を重用し、儒学に基づいた仁政を行いました。日本で最初の藩学校の設立や、庶民教育のために閑谷学校を整備するなど、教育に力を入れました。
 徳川幕府はキリシタン禁教のために寺請け制度を設けますが、当時の岡山藩の特別な宗教事情から、岡山藩では神道請けを実施しました。そのような経緯もあり岡山藩では神職の地位が高く、今村宮社家の黒住家も士分の扱いを受けていました。
 黒住家に生まれた宗忠は、幼いころから儒学に基づく徳目をしっかり学びました。岡山藩は儒教教育の一環として「親孝行」を奨励し、親孝行な子弟を表彰する制度もありました。少年時代の宗忠は親孝行息子として近隣でも評判でした。
 ある雨の日、父親は「雨が降って来たから下駄を履いて行きなさい」と少年宗忠に言い、玄関を出ようとすると母親から「雨も上がって来たから草履にしなさい」と言われ、どちらの言いつけを守ったらいいかと思い悩んだ宗忠少年は、片足に下駄、片足に草履を履いて出て、転んで泣いてしまったそうです。いかに親の言いつけに忠実に生きようとしていたかを物語る逸話です。
 宗忠少年の親孝行は、単純に親の言いつけを守るだけではありません。どうしたら親を喜ばすことが出来るかを常に考えていました。15歳の頃、「天下に名をあげ、世の人々に仰ぎ尊ばれる人になり、父母を喜ばそう」という志を立て、宗忠が行き着いた考えは、「多くの悩み苦しむ人々を助け導く〝神”になろう」ということでした。
 それでは、どうしたら〝神”になれるかを問い求め、書物を読み漁り、多くの人に訊ねました。すぐに答えは得られませんでしたが、研鑽を重ねて得られた結論が「心に悪いと思うことを、決して行わないようにすれば神になれる」という悟りでした。そして、悪いと思うことを書き上げ、五つの誓いを心に決めます。以後、「信心する家に生まれ信心しないこと。自分が慢心をして人を見下すこと。人の悪いことを見て自分にも悪い心を持つこと。病気でないときに仕事を怠ること。誠実な人生を口では言いながら心に誠がないこと」をしないようにし、厳しい修行を重ね、村人や氏子からも、「神か人か、人か神か」と言われるようになります。

両親の死と本人の病
 文化9年(1812)宗忠33歳の秋、痢疾(赤痢やチフスなど)に襲われます。母親が痢疾に罹り、激しい下痢と高熱で、看病の甲斐もなく亡くなりました(69歳)。ところが、母親を送った葬儀の夜に、今度は父親が同じ症状を発し、一週間後に亡くなります(72歳)。宗忠は相次ぐ悲劇に、朝から晩まで泣き続けました。両親の墓に参ったまま帰ってこないので家人が行くと、墓で泣きすぎて気絶していたというくらいでした。
 自らが「生きながら神になろう」と志を立てて修行に励んできたのも、世に尊ばれる人となり、親に喜んでもらうためでした。その両親を失った今、その志も生き甲斐もすべて失ってしまった思いだったのです。悲しみに暮れる日々を過ごすうち、本人も労咳(肺結核)に冒され、医者も匙を投げ、本人も死を覚悟するまでになりました。
 「もう死ぬしかないのか」との境地の中で宗忠は、「この世の別れなら、日の神様に拝して、神様とご先祖に感謝してから逝こう」と思い、家人に布団ごと縁側まで運んでもらい、お日様を拝したのです。すると、幼いころ両親とともにお日様を仰いだ日のことが思い浮かんで、激しい衝撃が心に走ったのです。
 「自分は、今まさに死のうとしているが、このような自分の姿を見て、両親はどう思うだろうか。我が子の死を見て悲しまぬ親はいない。自分は両親の死を悲しんで病になり、死にかけているのだが、それは果たして親孝行なのか。親から見ればそれはとんでもない悲しみなのだから、自分は大変な親不孝をしていたのではないか」との思いです。そう思うと、悲しみのあまり病に陥り死にかけている自分が、あまりにも父母に申し訳なく、詫びる気持ちになりました。少しでも、あと一息二息でも生きながらえることが、両親に喜んでもらえるとの思いに到ったのです。
 すると、症状が少しずつ回復し、息が続くようになってきました。2か月が過ぎる頃には顔に笑みも浮かび、喜びの心が満ちるようになったのです。まだ早いのではと周囲に言われても、手助けを得て入浴し、日の神様に拝しました。日の神様に手を合わせているうちに病も消え、健康な自分が戻って来たのです。

天命直授
 文化11年(1814)の冬至の日(旧暦11月11日)を迎えました。冬至の日は自らの誕生日でもあり、宗忠は日の出前から東天に向かい祈りを捧げていました。この年の1月、心の大転換によって命が長らえ、感謝の日々を過ごすうちに病気も快復し、迎えた初の冬至でした。
 東の山からお日様が出て、ぐんぐん昇って行きます。すると突然、大きな日の塊が宗忠に飛び込んでくるのを強く感じたのです。その日の塊をごくんと飲み込むと、何とも言えない喜びが心に満ちてきました。この貴重な体験が、その後の黒住教の開教に繋がります。
 宗忠が自らの体験を人々に語っているうちに、その話を聞いた人々がおかげを受けるようになりました。「心」が変わることで、病気や不幸から救われた人が増え、教団が形成されたのです。この日の宗教的体験を弟子達は「天命直授」と呼んで大切にしたことから、同日が黒住教立教の日となったのです。
(2021年3月10日付 773号)