『戦艦武蔵』吉村昭(1927〜2006年)

連載・文学でたどる日本の近現代(16)
在米文芸評論家 伊藤武司

吉村昭

武蔵は戦争の象徴
 戦史記録文学というジャンルを開拓した作家に吉村昭がいる。『零式戦闘機』『大本営が震えた日』『陸奥爆沈』『空白の戦記』『深海の使者』など。長編には『高熱隧道』『三陸海岸大津波』『関東大震災』『破獄』『冷い夏、暑い夏』『桜田門外ノ変』など。吉村は初期、短編を書きつづけていた。
 その後、一大転機となったのが戦艦武蔵建造の資料との出会いであった。あとがきに「武蔵こそ、私の考えている戦争そのものの象徴的な存在のように思えてきた」とあるように、創作の一念がかきたてられたのである。雑誌に掲載し、単行本はベストセラー、英訳もされ代表作となる。吉村39歳の時であった。
 本作は、長崎造船所における巨大戦艦の建造と進水と沈没までの、軍と民とが一丸となって繰り広げる苦闘のストーリー。史実を正確に追求し、作家の誇りというかプロ意識を滲ませている。長崎造船所での戦艦の起工は昭和13年3月。それから4年の歳月を経て竣工するまでの全過程を、資料と証言を徹底的に調べ上げた力作で、感銘を呼んだ。
 時代は、日本をとりまく世界情勢が急展開し、戦争の暗雲が漂っていた。1931(昭和6)年、満州事変勃発、32(昭和7)年、満州国建国、33(昭和8)年、国際連盟脱退、37(昭和12)年、日中戦争勃発(盧溝橋事件)、39(昭和14)年、欧州第二次大戦勃発、40(昭和15)年、日独伊三国同盟締結、41(昭和16)年、太平洋戦争勃発(真珠湾攻撃)。
 巨大戦艦の建造案は昭和9年10月、軍令部で検討されていた。2隻の巨大戦艦を建造する計画で、指令をうけた海軍省から三菱重工業へ発注されたのが戦艦武蔵である。全て極秘で進められ、大和を第一号艦、武蔵を第二号艦と仮称し、造船所内で「数人の技術関係者たちを中心に」会議が開かれた。この日以来、造船所の警護は厳重を極め、市内を巡察する憲兵や刑事たちが増員された。
 興味をそそられる点は、巨艦建造のために、当時の人間の知識と技能と意志力の総力が注がれたことにある。大和建造の地は呉の海軍工廠だが、三菱重工業のある長崎は立地条件に難しさが伴っていた。
 準備は半年前から秘密裏に始まり、500トンもの大量の棕櫚(シュロ)の繊維が九州一円で買い占められた。外から見えないよう、棕櫚を編んだスダレ状の覆いで巨艦の本体を完全に覆うためである。鋼材、ケヤキ材、松材などの買いつけも膨大であった。
 起工前に必要な準備は船体工事施設の拡充と技術開発である。長崎湾は対岸まで680メートルしかなく、そのため陸側の土を削って船台を延長しなければならなかった。さらに、船台に載せた巨大艦を海面に滑り降ろす技術が難しかった。長崎港は「一寸した高みからはむろんのこと、市街地からも一望のもとに見下ろすことができる」美しい景観を誇っている。上海航路の出入港で、各国の領事館も置かれ、市内には外国宣教師が出入りする教会やチャイナタウンもあった。こうした多様な状況は巨艦建造の機密保持には不利で、これら全てをクリアする必要があった。
 巨艦建造に向け大型の鉄の鋲が開発され、鋲打法に加え溶接法も併用された。工事は当初は順調で、ガントリークレーンの上部から吊るされた起重機が資材を積みあわただしく稼働していた。膨大な数の図面が準備され、高度に管理されたシステムに驚かされる。
 ところがある日、設計図面の一枚が紛失する。「軍極秘」に属するもので、あらゆる部署と人々を尋問・鑑査をしたが見つけることができなかった。張り詰めた臨場感が読者に伝わってくるシーンである。刑事も投入され、ようやく1か月後に解決をみた。製図工の少年がストレスのため図面を火に投げ込んでしまったのであった。秋が深まると工事が滞るようになり、日曜も休むことなく続行された。

大鑑巨砲主義の終焉
 戦艦武蔵は、当時の日本の造船技術の粋を集めて建造された最新式の巨艦で、全長263メートル、7万2千トン。強力な破壊力をもつ46センチの主砲9門を備え、1トンの砲弾が5千メートルの高さを40キロ以上も飛び、その破壊力は史上最大・最強とされた。水中弾も改良され、防水区画は1100以上、構造上不沈艦といわれていた。船底、弾火薬庫、機関室、発令所など船体は、「すべてが分厚い甲鉄に包まれ、その一つ一つが巨大な容器のよう」であった。竣工時の武蔵で目を見張らされるのは、冷暖房完備、エレベーター、ベットなどホテルのような設備が備えられていたことだ。
 国家の最高機密のため、内部構造は上層部の数人のみが全体像を知るだけで、各担当者には設計図の一部のみが与えられていた。現場の仲間たちの間でも作業内容についての会話は一切禁じられていた。そうした環境下、最盛期には1700人余の工員・技術者が建造にかかわったのである。
 艤装の段階にはいった昭和14年9月、ナチスドイツがポーランド領に侵攻。欧州に第二次大戦が勃発。「造船所内の空気は、息苦しいほどの緊張感に包まれた」。国内の戦時体制も一層強化された。翌年5月にはドイツの同盟国イタリアが参戦し、日本の参戦も時間の問題となり、所員たちは焦りを覚えながら建造にとりくんだ。
 ハイライトは武蔵の進水前後であろう。大和は3か月前に進水していた。武蔵進水の日には、鉄壁の厳戒態勢がしかれ、「国始まって以来、未だ一度も試みられなかった一大作業」となった。船台に入れるのは約千人の特別な徽章が与えられた者に限られた。市内の住民は外出禁止で、造船所に面した家の窓は全てが閉鎖を命じられた。危惧されていた船体を覆うスダレは、前年の台風襲来にも耐えていた。
 進水は「やり直しというものが許されない。少しの過失でも大事故に発展するおそれがある」。前夜の盤木の取り外し中、船台が30メートルの長さでき裂する事態が生じた。明けて11月1日の未明。作業員の夜を徹した作業に大詰めが近づいた。その瞬間は文句なく感動的である。
 市内には「防空演習」の通達が告げられた。1800人の憲兵、警察署員、警戒隊が市内一円に配置され海上では艇船が警戒に当たった。進水は満潮時に合わせて進行する。「進水の作業は時間との戦い」で、わずかに残された盤木の取り外しやスダレの巻き上げを、全工員が固唾をのんで見守っていた。そして「深い静寂」と「静止した空気の中」「巨大な鉄の城」が音もなく動き始めたのだ。完璧な進水であった。
 真珠湾攻撃が決行されると、武蔵の戦列参入が急がれた。艤装作業と竣工は突貫工事となった。艤装が完了した武蔵の全容は「おびただしい兵器でうずめられた要塞」、まさに巨大な「鉄の構造物」であった。しかし、この巨艦の運命は、竣工の時点で定まっていたといえるかもしれない。
 前線に配備されても最後まで温存された武蔵の結末は悲惨であった。日本軍は、アメリカ軍機動部隊の飛び石作戦の前に敗北と後退をよぎなくされた。昭和19年10月24日、2399人を乗せた武蔵は、太平洋戦争最大のレイテ沖海戦で、アメリカの圧倒的な航空兵力、6度の空爆と魚雷攻撃で海底に沈んだ。アメリカは緒戦の敗北を教訓として航空力に戦術を移し、航空力の増強を図っていたのだ。
 日本は緒戦で圧倒的な空爆による勝利をつかんだが、伝統的な「大艦巨砲主義」に固執した軍部はそこから学ぶことをしなかった。武蔵建造が発案されたとき「航空主兵主義」の意見もあったにもかかわらずである。
 武蔵撃沈は、海軍の旧弊を象徴する出来事であり、世界の海戦における大艦巨砲主義の終焉を告げるものであった。あまりにも巨大であったため、容易な標的になったともいわれている。厚い鉄板を鋲で止める方式にも欠陥があり、既に工事主任が懸念を指摘していた。人間の造るものに完全はありえないことを、不沈艦武蔵は如実に語っている。
 統帥部は、武蔵沈没の事実を秘匿したまま情報が漏れないようにした。生き延びた1376人の兵たちは再び新しい戦地へ送られ、ほとんどが戦死、玉砕、自決した。感情をおさえ、武蔵の最後を作品の中心にすえる精神が印象的である。
 武蔵の沈没から70年たった2015年、千メートルの海底に武蔵の残骸がアメリカの調査チームにより発見されたことは記憶に新しい。

妻は津村節子
 吉村は芥川賞候補に4度も挙げられているが、受賞したのは妻の津村節子だった。後に夫婦で日本芸術院会員になっている。記録文学やドキュメンタリーに秀で、映画監督の今村昌平が1997年カンヌ国際映画祭の最優秀賞を受けた「うなぎ」の原作は、吉村の書いた『闇にひらめく』。生き物を題材とした短編集 『海馬』の一遍である。『海の壁 三陸沿岸大津波』は昭和45年の東北地方で生じた明治29年から3度の地震・津波災害のルポルタージュ。後に『三陸海岸大津波』と改題。2011年3月11日の東日本大震災で、40年前の同書が注目された。それは作者の実証的な手法と、生存者の証言を丁寧に集めた考証が、読者の共感を呼んだからにほかならない。 昭和48年の『関東大震災』も、膨大な証言、避難した人の数、死者数など精細な資料を発掘して大震災の全体像に肉薄した。一方、時代小説には昭和57年刊行の『破船』がある。江戸時代、究極の方法で生き残りをはかった極貧の漁民たちの悲劇の結末を描いている。アメリカでは『Shipwrecks』のタイトルで出版。ヨーロッパの各言語にも翻訳され好評であった。
 昭和58年の『破獄』は、強盗殺人罪で監獄に収監されながら4度も脱獄した実在の人物が主人公。府中刑務所、青森や北海道・網走刑務所などを取材し、刑務所内の様子や看守たちの勤務の日々を克明・正確に描いている。
 本格的な歴史小説としては、幕末の井伊大老襲撃事件の顛末を精細に叙述した長編『桜田門外ノ変』や「解体新書」の杉田玄白の傍らで、原書翻訳に挺身した前野良沢に光をあてた『冬の鷹』がある。
(2021年3月10日付 773号)