『砂の器』松本清張(1909〜92年)

連載・文学でたどる日本の近現代(15)
在米文芸評論家 伊藤武司

推理小説の最高傑作
 松本清張が初めて長編推理小説にとりくみ、時刻表のミステリー『点と線』を出すと、たちまち清張ブームが巻き起こった。続いて『眼の壁』『ゼロの焦点』などがヒット。『砂の器』は1960〜61年、読売新聞に連載され、映画やテレビでもリメークされ、各国語に翻訳されている。今日、『点と線』『砂の器』は推理小説の最高傑作といわれ、清張文学は今なお根強い人気がある。
 ミステリー小説は、犯人を追跡しながら逮捕に至るスリリングさに、胸のたかなる面白さがあるが、清張は犯人探しのみに狙いをあてたわけではなかった。その関心は時代的背景に誘発され、異様で醜悪な犯罪の構図や犯行動機の解明、かつ登場人物の心理を、リアルにしかも入念に文章化したのである。ミステリーを文学のレベルに高めたのが清張の第一の功績といえよう。
 『砂の器』の序章は、東京・蒲田駅の操車場で顔を潰された男の変死体が発見されたところから始まる。聞きこみから、駅付近のトリスバーで被害者の男と一緒にいた若い男が浮かんできた。
 二人の東北訛りらしい会話や「カメダ」という言葉を手掛かりに捜査は東北地方へと広がる。戦後の日本は、昭和の高度経済成長時代を迎えていたが、殺伐とした人生を背負った人間は少なくなかった。暗い過去の記憶をかき消すどころか、出口のない犯罪に走るケースもあるだろう。経済成長の陰で、凶悪犯罪や疑惑事件も事実起きていた。
 カメダを姓名と推定し、東北六県の警察に身元照会するも不発。秋田県に「羽後亀田」という駅名を見つける。今西刑事と吉村刑事が秋田へ出張するも、不審な男が立ち寄ったという情報を得ただけであった。これは捜査の妨害をする犯人の攪乱工作であったのだ。帰途に就く駅前で、新聞記者の取材に応じている若手文化人の一団がいた。東京からきていたその人気グループは、犯人との接点を暗示する布石である。
 捜査本部が置かれひと月、聞きこみや地取りには有力な筋は浮かんでこない。捜査は完全に行き詰まっていた。捜査本部を閉める合同捜査会議が開かれ、主任の挨拶は「お通夜のように湿っぽい」敗北の弁そのものだった。明日からは「孤独で、苦労な」任意捜査に切り換わる。
 突然、「身もとが割れた」。被害者・三木謙一の息子が警視庁を訪ね、事件解決に光明がさす。岡山に住む父親が、伊勢参りや奈良・大阪を旅行するといって出たまま行方知れずに3か月が経つ。その父がなぜ、東京に来たのかわからないという。
 被害者は意外にも岡山県の在住者で、島根県出雲地方の元巡査であることも判明。その地は、東北弁に似た方言を語るところだった。カメダではなく「亀嵩(カメダケ)」の地名が出雲地方にすぐ見いだされた。
 照会した島根県警から、被害者は奉職から依願退職までの10年間を出雲地域で過ごしていたとの返答がくる。この報をうけ今西は単身亀嵩へ出張。そして東北弁に似た言葉を話す地方である事実を確認した。しかし、「怨恨を受けるような理由は、塵ほども見いだされない」。地元では今も尊敬されている人物であることもわかった。数々の善行で知られ、重い病に罹って故郷を追われた乞食姿の遍路親子の世話もしていた。そしてハンセン病に冒された父親を療養施設に移し、7歳の子供を「寺の託児所」へ預けたが、男の子は失踪したという。
 刑事の執念が実り始める。東北で見かけた若者たちの「ヌーボ・グループ」が浮かんでくる。結論は、亀嵩で失踪した男の子が本浦秀夫であること。さらに彼の足跡をさかのぼると、大阪大空襲で住民の戸籍が焼失する中、新たな戸籍を申請して別人になりすましていたことが判明。成長した秀夫は新進の作曲家・和賀英良になっていたのだ。
 新時代の息吹を感じさせる青年たちの一グループに、犯罪の主人公をすべりこませている。清張は最先端の知識や風俗に着目して創作に用いることに熱心であった。主催したミュージックリサイタルは多くの若者で盛況であった。ステージには前衛的生け花が飾られ、演奏者は和賀のみ。曲目は「寂滅」、その音響は頭上から足元から背後から湧きおこる。「今や新しい音楽が、ここに聞こえてくる」「聴衆はうっとりとこの音楽を聞き入っているとは言いかねた。どの人間も、新しい音楽を理解しようとして顔をしかめ、肩を張っている」。
 30歳の和賀は二つの会社の経営者で、政界の重鎮・元大臣の娘と婚約していた。近く渡米するプランも練っている。彼の成功は約束されたもので、不安材料は一つもなかった。素性を知る育ての親が出現するまでは……。

社会問題をテーマに
 「ヌーボー・グループ」は芸術家、ジャーナリスト、文化人など出世欲旺盛な若者たちの集団。既成観念を打破し、権威を否定することで脚光を浴びていた。犯人の職業を電子音楽アーティストとしたのはユニークなアイデアである。和賀の犯罪の裏づけが進む中、私生活には暗い痕跡と凄絶な過去のあることが浮上し、ハンセン病に触れる。
 ハンセン病は、らい菌が皮膚や末梢神経を冒す感染症で、長年差別と偏見にさらされてきた。日本では、20世紀初頭に隔離政策がとられたが、治療法の確立で1999年にらい予防法は廃止された。しかし人びとの差別意識や偏見が消えたわけではない。らい病で亡くなった本浦千代吉の出身地を調査すると、地元住民も避けるほど貧しく陰気な土地であった。
 警視庁の捜査一課の会議室では、こっそりと合同捜査会議が開かれ、課長以下、「当時操車場事件に専従していた捜査員たちが顔を並べた」。電波関係の技官、法医学者、鑑識課員らも参加している。
 複雑にからんだ三つの殺人事件の全容が、今西刑事の口から順次語られた。話がとぎれると、「どの顔も固唾をのんで彼のあとの言葉を待っていた」。今西はこの非情な犯罪の陰にハンセン病が動機となっていることを示唆した。
 ハンセン病という宿命を背負ってしまった主人公。生き抜くには、おぞましい痕跡を隠すしかなかった。ところが、秘密をかかえる彼の眼前に、かつての恩人が出現した。
 昔を懐かしがり「お国訛り」でしゃべる三木を犯人はどう感じたであろうか。「おそらく、そのときの驚愕、苦悶は、言語に絶するものがあったと想像」される。幼少時の恩人は、もはや感謝の対象ではなくなっていた。約束された未来を脅かす存在を排除するために、殺人もいとわない。冷徹な殺害はこうした背景で実行された。事件の全貌を解き明かす長い説明の終了は、犯人が作り上げた幻像が砂のように崩れさる瞬間であった。
 『砂の器』はハンセン病という不条理性を内奥にすえ、悲運をひた隠しにし、孤独と哀しみと虚飾にみちた人生を送らざるを得ない犯人を描いている。松本清張が社会派作家といわれるゆえんである。

歴史ミステリーも
 清張の小説には鉄道がよく使われ、トラベルミステリーの先駆けとみることもできる。新婚そうそう失踪した夫を探し求めて、東京から汽車で北陸へ発つ妻の『ゼロの焦点』。時刻表トリックの『点と線』では、東京博多間の寝台特急を登場させ旅情がさそわれる。本作でも東北への出張、中国地方へ特急出雲で赴く長旅、伊勢や大阪方面への調査旅行も手慣れたもので、読者も見知らぬ土地へ旅する空想をふくらませてしまうのである。
 処女作『西郷札』が直木賞候補となった翌年、清張は、『或る「小倉日記」伝』を発表。作品は直木賞候補にも推されたが、結果的に1953年に芥川賞を受けた。ここからも了解できるように、松本清張は推理小説的志向と純文学性をあわせもつ作家といえる。その後、清張ブームに火がつき、推理小説の世界で一時代を画する巨大な存在となった。
 旺盛な創作意欲の作家としても著名であった。活動の絶頂期を1950年代後半から60年代とすると、ベストセラーや話題作がめじろ押しである。『眼の壁』『蒼い描点』『ゼロの焦点』『黒い樹海』『波の塔』『霧の旗』『砂の器』『黒い福音』など長編の量産時代に突入する。
 さらには、歴史・時代小説の『無宿人別帳』『かげろう絵図』『天保図録』、現代小説の『小説帝銀事件』、古代史の『古代史疑』『Dの複合』、現代史の『日本の黒い霧』『現代官僚論』『昭和史発掘』、また随筆、紀行、対談など、清張のジャンルの広さ、テーマの多様さ、その健筆には瞠目すべきものがある。
 60代半ばで朝日新聞に連載した古代史小説『火の路』は野心的な試みである。古代飛鳥の巨大石遺跡群のルーツが、ペルシャのゾロアスター教にあるとする長編で、ミステリーの体裁ながらも、多くの部分が主人公の女性考古学者に語らせる論文風である。邪馬台国論争で清張は九州説を唱えていた。『火の路』は、歴史推理に基づく清張の古代史学説といえる。後に発掘調査で清張の説は否定されたが、人々の関心を集め、当時の古代史学界にも大きな刺激になった。
 松本清張の旺盛な創作を支えたのは、類いまれな反骨精神と知的好奇心に求められる。82歳で没し、絶筆は昭和初期の新興宗教団体を扱う、未完の『神々の乱心』であった。
(2021年2月10日付 772号)