金光大神(下)

連載・岡山宗教散歩(24)
郷土史研究家 山田良三

迫害を超え発展
 立教神伝のあった安政6年(1859)12月、金子大明神は神から命じられるままに床の間に仮の神棚をこしらえ、翌年の元旦、篤信者の住所氏名年齢などを記す「神門帳」を調えます。立教以前から難儀を抱え取次を求める多くの参拝者がさらに増え、日に数十人にもなりました。この頃、おかげをいただいた信者の中から、教祖にならい取次をする者や教団を支える者がでてきます。
 参拝者が増えて自宅の広前は手狭になり、文久元年(1861)には神の命で東長屋を建て替えます。田畑があると農業のため取次に専念できないからと田畑を手放し、宅地とわずかの畑と山林だけが残りました。
 やがて、近隣の修験者(山伏)が、「無資格な一信仰者が、(修験道で悪神とされている)金神を祀って人々を惑わしている」として、取次をやめさせようと、度々やって来るようになります。山伏たちは庄屋に苦情を申し入れ、広前に来ては神前の神具や供え物を持ち去って庄屋に持ち込み、理屈の限りを尽くして取次をやめさせようとしましたが、大明神はいつも穏やかに彼らに接し、彼らが帰ると再び取次を行いました。見かねた金光梅次郎という信者が、出入りしていた児島の尊瀧院(修験道の本山)に出向き、大明神に補任状を出してもらいます。すると今度は、補任状をたてに寄付を強要するなど、嫌がらせはしばらく続きました。大明神は「立ち向かうものには、負けて時節に任せよ、と神様が仰せられる」と語り取次を続けました。そのうち次第に来なくなりました。
 この年文久2年10月、実弟の小畑彦助が、心の病で亡くなります。神号も「金子大明神」に代えて「金光大明神」を授かります。12月には母屋の土間を改造して広前を拡張、文久3年3月には、「表口の戸を取り外し、『戸たてず』にせよ」とのお知らせで、雨戸を取り除き、参拝者がいつでも参れるようにしました。さらに4年後には、「門の戸を開き、敷居をつぶせ」とのお知らせで、門の敷居に板を打ち付け、戸を閉められなくしてしまいました。
取次の宮の建築
 元治元年(1864)元旦、神から「『神の宮』を建ててくれ」とのお知らせがありました。当時、宮を建て、神事に関与するには資格が必要で、そのため京の白川家に信者の橋本右近と棟梁の川崎元右衛門が代人として登り、神拝式許状に宮建築の内諾も得ます。その後、各地で取次を始めていた弟子の斎藤重右衛門や高橋富枝なども白川家に入門し、許状を受けます。10月には金光大神に冠、袴などの着用とともに、金光河内の名を名乗ることが許されました。
 ところが、宮の建築にはさらに正式な神主職の補任状が必要で、そのため領主の添書が必要で、多額の献金も準備し、白川家から神主の補任状を受けました。この時、息子の石之丞と橋本右衛門など3人が代人で登りましたが、神から「『白川家の決まり通りのことは出来ません』と申し、この神のおかげ話をするがよい」とあり、正直にそのことを伝えると、白川家は「それでよかろう」と了承しました。補任状を得て領主から宮建築の許可が下り建築にかかると、神から「棟梁の考えが悪いので、宮の建築は成就しない」とのお知らせでした。確かに棟梁の生活ぶりには問題があり、大明神は棟梁の立ち直りを見守り続けましたが難しく、結局この時、宮の建築は中断となりました。
 元治元年(1864)10月に「金光大権現」の神号を許されます。妻のとせも「一子明神」の神号を受けました。
 時代は幕末、大きな変革の中で、金光教祖の周辺にも様々な改変の波が押し寄せます。金光家では三男浅吉が蒔田藩に仕官、四男の萩雄も仕官します。慶応2年9月に養母いわが76歳で亡くなり、石之丞が病になりましたが、神様のお知らせのままにすると回復し、おかげを受けました。

明治になっての試練
 慶応3年(1867)10月に大政奉還があり、翌年は明治になります。明治新政府は平田派の主張した祭政一致の政体実現に動き、慶応4年3月から明治元年10月にかけて神仏判然令を出しました。社僧の廃止・還俗、仏語による神号の禁止、神社にある仏像、仏具の撤去が進められます。神仏判然令は特に神仏習合を旨として来た修験道や陰陽道、それに金光大神のような独自の信仰の教団に深刻な影響を及ぼします。
 「金光大権現」の神号は「生神金光大神」となりました。そのころ神からは、「天下泰平 諸国成就祈念 総氏子身上安全」の幟を立てることや、「神号帳」「一の弟子改帳」の作成が命じられます。11月には妻や子どもたち全員に神号が授けられました。
 明治3年10月、「生神金光大神社、天地のしんと同根である」とのお知らせがあり、さらに明治5年7月には、「天地乃神の道を教える生神金光大神社を立てぬけ」「わが心におかげがある」とのお知らせがありました。
 明治4年になると神道国教化政策はさらに進み、社寺の領地の国有化、神職、僧侶の等級廃止、5月には「神官職員規則」が公布となり、神社の神官が国家の管制のもとに組み込まれます。神職の世襲制や神社の私物化が廃止となり、地方の行政区画に対応して大小神社の統廃合が進む中、金光大神は従来の神主職という名目での神勤行為が出来なくなりました。神からは「六角畳(広前の祈念座)を取り片付けよ。こののちどのような思いがけない難があっても苦にするな」とのお知らせがあります。世間には、金光大神の広前について、悪い噂も流布されるようになりました。
取次の中止と再開
 明治5年11月26日、小田県より神官新任と従来の神官罷免の布告が出され、金光大神は神職を失い、無資格となります。新暦になった明治6年2月18日、戸長(町村長)から神前撤去の命が来ました。金光大神は命じられるままに一切を片付け、14年間一日も休まず続けていた取次を止め、広前を退きます。奥の間に閉じこもり、誰にも会わずひたすら神と向き合い、自らの生涯を振り返り、役所の規制の中でどうすれば神の道を貫き、人を助けられるか祈念し続けました。神からは「力落とさず、休息いたせ」、「良しも悪しきも神任せにせよ。心配するな。五年の間辛抱せよ」と仰せがありました。
 3月20日、戸長から「内々で取次を始めてよい」との許しが出ます。「内々ではお上や村役場に迷惑をかけるのでは」と辞退しますが、戸長は「心配するな」として取次を再開します。神からは「天地書附」を書き溜めるようお知らせがありました。またこれまで神前に向かっていた取次の座を表口向きに改めるほか、教えや取次のあり方、神号の伝授など、当時の行政に合せながらも取次を神の願いにかなうように改めました。

官憲の干渉
 明治9年ころから、今度は警察制度の拡張の中で官憲からの干渉が始まります。宗教行為への取締りが激しくなり、信徒のはからいで「敬神教育」としての取次に変わります。また村役人の協力で、取次の宮を村の神社「素戔嗚神社」として建て、その附属社として広前を開くようになりました。信徒や村の人々の協力で広前は続けられ、各地で広前を開いて取り次ぐ者も増え、信徒は増え続けました。
 明治14年10月、「金光大神の身に虫が入った」とお知らせがあり、それ以降、体調不良が続きます。明治15年10月には「万国まで残りなく金光大神でき、おかげを知らせてやる」とお知らせがあり、明治16年7月からの百日行が終わった9月27日、広前を退き、神前奉仕を四男の萩雄に任せました。そうして10月10日帰幽、信心一筋、神様と人との取次を歩み切った70年の生涯でした。遺言から親族など少人数での質素な葬儀でした。
 金光さん(金光大神)の教えは、教えを受け継いだ子や孫、篤信の弟子たちによって世界に広められました。教団や教祖一族の利益に走ることはありませんでした。
 今回、話を伺った教祖につながる縁のある前金光図書館長の金光英子先生は「質素な生活を心がけていますから 」と、教祖一族の質素な生活ぶりを語られました。外面の立派さを誇るようなことはせず、地域の福祉や文化の発展に寄与して来ました。赤十字やボーイスカウト・ガールスカウト活動、金光学園中・高校などを通しての青少年の教育に尽力したのです。金光図書館は、後に第4代教主となる金光鑑太郎により、戦中戦後の本の無い時代に多くの本を集め、貸し出しました。
 教祖・金光大神の教えた「おかげは和賀心にあり」という、神と人が親子の繋がりをもってあいよかけよと共に幸せを求める信仰姿勢は、金光教団という教団組織を越えて、世界の人々に信仰の最も大切な基本として伝えられています。神様の光が世界あまねく行き届き、共に幸福に生きる世界の実現が教祖の教えた教えの根本です。
(2021年2月10日付 772号)