イスラム神学各派の理論
連載・カイロで考えたイスラム(34)
在カイロ・ジャーナリスト 鈴木真吉
歴史的なイスラム神学のあらましは既に紹介したが、ここではそれらを総合的に見ながら、イスラム教の神観、罪観、人間観、人生観、死生観、予定論(宿命論)、終末観(審判)、歴史観などの長所と短所を概観してみたい。
イスラム神学が出てきた必然性は、1つに、コーラン自体が矛盾性を持っていたこと、2つに、イスラム教の拡大に伴い、各地の思想や宗教と出会ったことにより、論理性や実証性を求められたこと、などだ。
ことに、神学上の大問題として、当初から論争の源になったのは予定論(宿命論)で、「世に起こるありとあらゆる事柄は、あらかじめ神が定めておいたものが実現するにすぎない」と主張、人間にいささかの自由意志も認めない一団、「ジャブル派」と呼ばれる人々がいた。ジャブルは「強制」を意味する。
それに対して、神の予定・宿命を正面から否定し、人間の自由意志を認めた一団がウマイヤ朝の末期近く、シリアのダマスカスに発生した思想的運動のカダル派だ。ウマイヤ朝末期には、さまざまな罪業、陰謀、不正、悪行が充満したが、「全能で完全無欠の神が悪業を行うはずはない、神以外の者が人間を唆してやらせているに違いない」と考えたカダル派が発展した大思想運動がムアタズィラ派になったとされる。
ウマイヤ朝は、その成立過程でシーア派やハーリジ派と対立し、ことにハーリジ派が神学的・理論的な批判を浴びせ始めたことから、政権の理論的裏づけを迫られ、その役割を担うムルジア派を成立させたのである。
ムルジア派は、ハーリジ派からの厳しい追及を避けるため、最大の罪を犯した者以外に対しては、いたずらに非難の矢を向けるべきではないと主張し、最大の罪は多神崇拝だとした。また、人間に対する判決は人間が下すべきではなく、神に一任すべきだとし、神は最後の審判の日に裁かれるから、裁きはそれまで待つべきだと主張した。「神は唯一、ムハンマドは神の使徒」という信仰告白をし、メッカの神殿の方角に向かって祈る人々は全て真のイスラム教徒と認めるという立場だ。
これに真っ向から反対したのがハーリジ派で、信仰は単に信仰告白のみで足るのではなく、実践的な要素、信者としての正しい行為が加わらねばならぬと主張した。行いの正しくないものは信徒ではない、そういうものは非イスラム教徒であるから殺害すべきとまで主張した。
それに対しムルジア派は、信仰と善行は別問題と主張し、信仰による罪の救いを主張するに至り、「人は信仰によってのみ救われ、信仰のみが人を地獄の業火から救済する」とした。多神崇拝(偶像崇拝)の大罪を犯さない限り、どんな罪を犯そうが、アッラーと預言者ムハンマドに対する信仰さえ失わなければ、永遠に地獄に落ちることはなく、必ず救われる。信仰さえあれば罪人でもイスラム教徒で、そういう人たちを非信徒、異端者とし、無慈悲に排除するのは絶対に許されない、と主張した。
アッバース朝前期にはイスラム世界でも合理主義が謳歌され、生まれたのがムアタズィラ派の神学だ。彼らはイスラム教において最初に「理性」を真理の基準として認め、かつその絶対的権威を確立したとされる。同派は真理はコーランとスンナ以外にも至る所にあると考え、ギリシャ思想やペルシャ思想、キリスト教、ユダヤ教などでも理性は正しく行使される、とした。また、善行にせよ悪行にせよ、行為を創造するのは人間自身であるから、人間はこの世で為した善悪に従って、来世において賞罰を受けるとした。結局、ムアタズィラ派は、予定論を排し、人間の行為は全て人間に帰するから、人間は神と並び第二の創造主となる、とした。
ムアタズィラ派のもう1つの特徴は、神を人間化して表象することに反対し、比喩にすぎないと主張したことだ。その代わり、神の持つ性質を神の属性として表現し、99の属性があるとした。たとえば、永遠、無限、愛、無始、無終、大能、智慧などである。コーランは神の言葉で、言葉も神の属性だから、「コーランは神によって創造された」とみなし、コーラン創造説を唱えた。徹底した合理主義であった。
これに対する反動が起こり、その先頭に立ったのが、40歳までムアタズィラ派の大学者シュッバーイの高弟だったアシュアリーだ。その前に、アッバース家のカリフで、徹底した理性第一主義の立場に立ち、ムアタズィラの教義を国家公認のイスラム教義としたマアムーンに、敢然とただ一人背いたのがハンバル派の創始者イブン・ハンバルで、「コーランとハディースに還れ」と叫び、投獄され、獄死した。ただ、合理主義を一度通過した神学は、ハンバルのような昔の信仰では満足出来ず、ハンバルの精神を尊重しながらも、思弁神学的方法を取ることが求められ、その観点に立脚して宗教改革を断行したのがアシュアリーとされる。
アシュアリーは40歳にして理性主義を捨て、宗教的改心に基づき出した結論は「コーランの章句は全く文字通りに解釈しなければならぬ」ということで、ハンバル派の主張を数多く取り入れた。たとえば、神があたかも人間のごとく書かれていても、それがコーランの章句である以上、アレゴリカルな解釈を加えてはならないとし、ムアタズィラ派を批判した。彼の結論は、ムアタズィラ以前の単純な大衆信仰に逆戻りしたようなものだった。アシュアリーはその後、次第にハンバル派への固執を捨て、新たな理性主義に向かい、「信仰は確実な神の認識に基づくものでなければならない」とし、理性による証明の必要性を強調するようになる。ハディースのみに基礎を置く認識は絶対確実な知をもたらさない、とも主張した。
なお、ムアタズィラがあくまで論理的な推論で、コーランの教えと正反対の結論に達しても何ら意に介さなかったのに対し、アシュアリーは、常に理性の自由をコーランに反さない程度に限っていた。故にアシュアリーのイスラム改新運動は、いわゆる正統派の教義に至るには道遠く、ガザーリーを待って初めて決定的となる。
ガザーリーはイマーム・ハラマインの門下で、同輩や先輩を凌いで師の代講をする秀才だった。1091年当時の最高学府、バグダッドの二ザーム学園の教授になり、スンナ派学問世界の最高権威だったが、信仰と理性の矛盾に突き当たり、1095年、教授の地位を譲り、真理を求めて彷徨の生活に入った。約10年の彷徨の期間に、「瞑想によって神と直接触れるのでなければ、決して真の救いは得られない」ことを確信し、宗教は体験しなければならないと主張した。
ガザーリーは、信仰の外面的儀式化であるパリサイ主義に反抗し、宗教の内面化、信仰の深化を求めた。そして、「我々は神のみを純粋に愛することによって、全てのものを、全ては神の被造物なるが故に愛することが出来るのである」と主張した。
(2021年2月10日付 772号)