備前・備中のキリシタン

岡山宗教散歩(18)
郷土史研究家 山田良三

日本二十六聖人記念碑
日本二十六聖人記念碑

日本二十六聖人の一人
 慶長2年(1597)、豊臣秀吉の命により長崎で磔の刑に処された「日本二十六聖人」のうち、63歳の最年長だった市川喜左衛門(洗礼名ディエゴ喜斎)は備前国芳賀(現岡山市北区芳賀)の出身です。喜左衛門は大坂の商人で、イエズス会の宣教に触れて入信、熱心な信徒となり会堂の門番や接待係をしていました。秀吉のキリシタン取り締まりはフランシスコ会が対象でしたが、役人が誤って大坂のイエズス会信徒3人の名も挙げ、その中に入れられたのです。
 出身地芳賀の丘陵の頂に小公園があり、「市川喜左衛門墓」が建っています。もとは「亀岩」という岩があり、地元の人々が「天主岩」とか「やこぼさん」と呼び喜左衛門を弔っていました。昭和33年、地元の市川数太氏他有志によって「墓」が建立されました。地元では喜左衛門のことをヤコボと呼んでいたようです。芳賀は、孝謙天皇の病気平癒に験があり、備前48か寺を開き、最上稲荷の開祖でもある報恩大師の出身地で、近くの日蓮宗顕本寺には報恩大師産湯井戸が遺されています。
 備前はもとは主に天台宗でしたが、法華宗の大覚大僧正による布教とそれを保護した松田家により、「備前は悉法華」と称されるほどに法華宗が盛んになりました。織田信長がイエズス会の布教を認めた京の周辺や九州ではキリシタンが飛躍的に増えていた時期、備前・備中にはまだ広まっていませんでした。1581年のイエズス会の日本年報に、播磨までの記録はありますが、備前から先の記録は見当たりません。それが1585年になると、播磨の黒田官兵衛や宇喜多家に仕えた小西行長などの勧めもあり、宇喜多家家臣や備前の民の間にキリシタンが急速に広まっていきました。
 大きな転機となったのが1594年です。前田利家の三女で秀吉の養女として宇喜多秀家に嫁していた豪姫が病になり、その平癒を法華の僧侶に祈祷させたものの一向に験がなく、そのことを怒った秀家が、家中の者たちに「法華からキリシタンに改宗せよ」と命じたのです。このことに法華の譜代家臣たちは反発します。
 そのころの備前国の執政が長船紀伊守(綱直)でした。長船紀伊は大坂城の請負奉行をしている時に秀吉に見込まれ、宇喜多家の執政に取り立てられました。同じく文治派と言われる中村次郎兵衛などが宇喜多家を取り仕切っていました。キリシタンの長船紀伊が藩の執政を預かることで、宇喜多家中のみならず民の間にもキリシタンが増えていきました。
 1596年、秀家の従弟の浮田詮家の勧めから、後に宇喜多の家老となる明石掃部全登が受洗しています。その翌年、長崎で処刑される26人が備前を通ることとなり、その一行を監督する役目を明石掃部は任されます。赤穂で一行を迎えた掃部は、旧知だったイエズス会のパウロ三木と再会の涙を流します。赤穂を出た一行は片上で一泊、ここで掃部は密かに彼らに手紙を書く暇を与えました。遺されたパウロ三木他の手紙には深い信仰告白が綴られています。翌日は岡山城下に泊、その翌日、備中川辺で毛利方に一行は引き渡されました。
 山陽道を行く受刑者一行の姿は備前の人々に深い感銘を与えました。引き立てられながらも篤い信仰告白を、沿道の人々に述べ続けたのです。一行の通過後、備前国でキリシタンが急速に増えたと記録されます。
 処刑対象者は当初23人でしたが、途中で少年が1人加わり、さらに一行に離れず付いてきた2人を加えて26人が長崎で磔刑にされました。ディエゴ喜斎の遺骨の一部は長崎の「日本二十六聖人記念館」に保存されています。
 明石掃部はこの事でキリシタンの信仰をさらに篤くしました。秀家の従弟の宇喜多左京亮(坂崎出羽)と共に大坂でイエズス会の神父2人を救出しています。布教にも熱心で、1600年の1年間に備前・備中・美作で新たに2千人が受洗、掃部の配下には3千人のキリシタンがいたとの記録があります。
 慶長4年(1599)宇喜多家にお家騒動が勃発します。当時、家宰として備前国を取り仕切っていた長船紀伊守ら文治派と、その采配に不満を持つ旧来の宇喜多家家臣の武断派との争いでした。この間長船紀伊は亡くなって収拾がつかなくなり、最後は徳川家康が仲裁に乗り出します。それにより、戸川達安、宇喜多詮家(坂崎出羽守直盛)、岡貞綱、花房正成の4人が出奔、後に彼らは徳川の家臣となります。
 反文治派は法華が多かったため、キリシタンと法華との争いとも伝えられていますが、反対派のうち浮田詮家は明石掃部を導くなど熱心なキリシタンだったので、宗教上の対立とは言い切れないようです。
 騒動の後、明石掃部が家老となり宇喜多家を取り仕切ります。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に組した宇喜多勢は福島正則を相手に善戦したものの、小早川秀秋の寝返りなどもあり敗北、明石掃部は斬り死にしようとした主君秀家を諫め、大坂城に退かせます。秀家はその後薩摩に逃れ、島津家に匿われます。明石は岡山城に退きますが、秀家と連絡が取れず出奔、一時黒田家に身を寄せ、その後大坂冬の陣、夏の陣で豊臣方武将として活躍します。最後の消息は不明です。

備中出身の千松兄弟
 徳川幕府のキリシタン禁制が強まる中でも当初、支倉常長をローマに遣わした仙台藩や弘前藩など東北は比較的緩やかだったため、多くのキリシタンが東北に逃れました。永禄年間(1558〜69)に仙台領の大籠地方に、南蛮流の製鉄技術とともにキリスト教を伝えたのが備中国有木出身の千松兄弟です。この兄弟の布教により一時、同地のキリシタンは3万人にもなりました。しかし、幕府の取り締まりが強化されるにつれ、大籠のキリシタンも殉教の道をたどります。
 備前・備中には「隠れキリシタン」の遺跡と思われる「マリア灯籠」などが数多く遺っています。足守の近水園のマリア灯籠や金川の妙覚寺境内のマリア灯籠等です。長船紀伊に縁のある備前市香登にも、同じような灯籠があります。備前市香登は地元の大内神社に摂社・大避神社があり、山背大兄王が自害の後、秦大兄が逃れてきた伝承もある秦氏縁の地です。長船紀伊の旗持だった紀井六助が、朝鮮出兵の折、朝鮮兵の鼻を供養した「鼻塚」もあります。岡山藩政時代のキリシタン取り締まりの様子は岡山藩池田家の文書に記されており、尾山茂樹著『備前キリシタン史』(上下)に詳しく取り上げられています。
 現在、香川県の小豆島は、古代は備前国児島郡の一部で、江戸時代は幕府の天領で倉敷天領下になり、後期には津山藩の飛び地でもありました。堺の商人から宇喜多に仕え、後に秀吉に取り立てられ大名になった小西行長は、塩飽諸島と小豆島の領主になります。行長は、高山右近の後押しもあり小豆島で布教に努め、約1400人の島民がキリシタンになりました。
 1587年、秀吉のキリシタン追放令が発せられると行長は棄教しますが、棄教を拒んだ右近は改易され、その右近と宣教師オルガンチノを行長は小豆島に匿います。オルガンチノは現土庄町肥土山に、右近はさらに山奥の小豆島町中山に潜伏していました。
 小豆島の島民は行長が九州宇土に転封後も信仰を守り、聖職者がいなくなっても携帯用神父の像を作り礼拝するなど信仰を守り続けました。島の有力者の理解もあり、270年の禁教期間中も甚だしい殉難はありませんでした。現在、土庄町渕崎にあるカトリック小豆島教会には、小豆島宣教400年を記念して大阪の玉造教会から移設した高山右近像があり、小豆島町のオリーブ公園には高さ15メートルの白い十字架が建てられています。
 開国後の1864年、フランスから宣教師フェーレが来日し、長崎に教会堂を建てると浦上の潜伏キリシタンが名乗り出て来ました。しかし、徳川幕府のキリスト教禁教を引き継いでいた明治新政府は彼らを拘束、「浦上四番崩れ」と呼ばれる村人たちは諸国に流されました。そのうち163人が岡山藩預りとなり、浜野の松壽寺や弓之町の牢に拘留、そのうち117人が、現備前市の日生諸島、鶴島に流されました。明治6年に解放されるまで過酷な生活を強いられ、18人が亡くなり、殉難者の墓標が島に建てられています。
(2020年7月10日付765号)