独創性への強い意志

シュヴァイツアーの気づきと実践(8)
帝塚山学院大学名誉教授 川上与志夫

 1900年前後のドイツの大学では、教授と学生が一堂に会し、親しく語り合い、意見を述べ合う、パーティを兼ねた集会があった。立ったまま、誰とでも気軽に話のできる機会である。ある年のこと、集会の最中に、ひとりの学生が大声で叫んだ。
 「何ていうことだ。学者の研究や論文がそのようなものであるなら、我々は単なる『エピゴーネン』にすぎないじゃないか」
 このエピゴーネン(猿まね:人の物まねばかりしている独創性のない生き方)という言葉に、アルベルトは強烈な衝撃を受けた。
 〈現在の学者たちが過去の学者たちの研究を踏襲し、ほんのわずかに自分の考えを披露するだけなら、それはまさにエピゴーネンの世界ではないか。過去から学ぶことも猿まねも必ずしも悪いとは思えないが、そのような学問や生き方は私にはそぐわない。私は独自の道を切りひらきたい。誰にもまねのできない「私」でありたい〉
 この集会でアルベルトは、エピゴーネンの意味を改めて思い知らされた。そして決心した。人に何と言われようと、自分は自分の道を歩もうと。
 カント哲学の論文で学位を目指していたとき、彼は原本をはじめ多くの参考書を読んでいた。そして気づいた。研究者は他の研究者の論文ばかり読んでいて、原本そのものを深く読んでいないことに。これこそ猿まねの世界ではないか。アルベルトは決心した。研究者たちにすがるのではなく、原本を書いたカントの心に深く切り込み、独自のカント論を書こうと。その結果生まれたのが『カントの宗教哲学』という博士論文であった。
 専門の神学分野においても、アルベルトは独自性を重んじた。まずは「神の子イエス・キリスト」をどう理解するかということだ。それまでの神学の主流によると、イエスは神の霊によって身ごもった乙女マリアより生まれた、まさに神の子であった。アルベルトはそれを真っ向から否定することなく、穏やかに、しかし力強く「人の子イエス」に焦点を当てた。ひとりの人間として、命の危険をかえりみないで神の愛を具現したのがイエスである。不正な権力者に抵抗し、虐げられた弱者に寄りそったイエス。ここにこそキリスト(救い主)の心が生かされ、「神の子」と呼ばれるのにふさわしい姿が見られる。
 さらにアルベルトは、イエスも間違いを犯したことを記述した。当時のイスラエルの世界には、間もなく天変地異によってこの世は滅び、新しい世界が訪れるという、終末観がはびこっていた。イエスもこの終末観に生きていたというのが、アルベルトの理解であった。イエスの極端とも思える言葉「永遠の命が欲しければ、持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に施して、私に従ってきなさい」などは、まさに終末観的発想である。
 アルベルト・シュヴァイツァーの独自性は、学問、音楽、生き方などにいかんなく発揮された。そのために多くの誤解を受け、批判されたり、非難されたりした。そのいくつかを具体的に拾い上げて、シュヴァイツァーの心を探ってみようと思う。(2020年2月10日付760号)