児島の熊野神社と修験道

岡山宗教散歩(12)
郷土史研究家 山田良三

熊野神社
熊野神社

法然と熊野権現
 浄土宗史の研究家・三田全信氏の『浄土宗史の諸研究』の中で「平安中期の熊野に関する勘文を集めた『長寛勘文』の『熊野権現垂迹縁起』に熊野権現の成立に渡来人の関りを暗示していて、そのことの故か(法然上人の)『行状絵図』には法然の熊野信仰に係る話が散見される」とあり、法然と熊野権現との関わりを取り上げています。
 行状絵図20巻には作仏房という修験者が熊野証誠権現の神託によって法然のもとに参じ、一向専修の行者になったことが、同37巻には、法然臨終の様子の中に京都・西山の木こりが駆け付けたことが記されています。三田氏は「西山の炭焼き業者は、熊野の秦氏と同系人で、林産業に従事していた人々であろう」としています。
 さらに三田氏は、法然の生家漆間家が仁平元年(1151)に所領の美作国稲岡南荘を熊野坐神社に奉納したことを紹介しています。「醍醐本」の法然伝によれば、法然の父漆間時国殺害の報を聞き、黒谷に隠遁の志を持った18歳の年の翌年です。三田氏は「漆間時国の死後、衰微していった漆間家が海運安全に力ある熊野坐神社に所領の一部を寄進したのであろう」としています。熊野神社の社領の文献「熊野年代記」に漆間家による所領の寄進の事実があるそうです。
 また三田氏は、南北朝期から室町長期に活躍した浄土宗の学僧聖聡が著した『大原談義聞書抄見聞』に引用された『称揚集』という書の中で、法然38歳の嘉応2年(1176)に熊野本宮の別当湛増法橋が法然を招請したとの一文があることから、当時は秦氏としての同族意識が残っていたのであろうとしています。
 近年、世界遺産に登録された熊野古道が人気となり、内外から多くの観光客が訪れています。熊野詣は平安中期から鎌倉にかけて盛んになり、多くの歴代上皇も訪れていて、最も多いのが、後白河上皇で34回、次に多いのが後鳥羽上皇で28回です。後鳥羽上皇の熊野御幸中、都に残った女御が法然の弟子により出家したことから弟子たちが処刑され、法然は讃岐に親鸞は越後に配流されました。この頃、上皇の熊野御幸の先達を務めたのが、児島の新熊野(いまくまの)の五流山伏でした。
 児島の山伏は、文武天皇の3年、修験道、山伏の祖とされる役行者が冤罪により伊豆の大島に流された時、児島に逃れた義学ら5人の高弟たちが起源です。彼らは熊野権現に難が及ぶことを恐れて、長床坐衆五流8家、12家、35院の門人350余人とともに熊野権現の御神体霊宝を船に奉じて各地をさまよい、児島の柘榴浜(現倉敷市児島下の町)に到着、現在熊野神社と五流尊流院のある福岡村林(現倉敷市林)に、熊野三山に模して新熊野三山を造営し、根本道場としたのです。
 その後、役行者が赦免され、義学なども紀州に帰り、全国に散在している役行者の門弟の熊野参拝、大峯入峯を監督しました。天平20年になると聖武天皇より児島半島全域が熊野神社に寄進され、孝謙天皇の代に紀州熊野と同様の本殿、長床他の諸堂や鳥居が建造され「日本第一大霊験処」などの額が掲げられました。次いで木見(現倉敷市木見)には新宮諸興寺、瑜伽(現倉敷市児島由加)には瑜伽寺が創建され、合わせて「新熊野三山」と呼ばれるようになりました。
 義学ら高弟5人の法統を継承した五流は役行者の修験道を継承し、そのもとに8家、12家の公卿山伏衆徒35寺を擁するようになります。紀州にはそれぞれの別院を置いて往来し、熊野表の役職はすべて児島から任命していました。歴代皇室の尊崇を受け、天皇、法皇の熊野行幸や大峯、葛城、金峯などの入峯の先達を長床宿老が勤め、児島山伏は行幸山伏とも称され尊重されたのです。
 源平合戦の1185年、備前国児島の藤戸(ふじと)であった「藤戸の合戦」で、児島に陣取った平家に対し、藤戸の瀬を馬で渡り先陣を切った佐々木盛綱の功により源氏が大勝します。そこで源頼朝が盛綱に児島の波佐川(現岡山市南区灘崎町迫川)の荘を授けたことに熊野一山が抗議し、返還を求めた記録も残っています。
 1221年の「承久の乱」では、北条氏が後鳥羽上皇を隠岐の島に奉遷し、第四皇子の冷泉宮頼仁親王が児島に遷されました。頼仁親王は五流尊流院に庵室を結び、以来その嫡流が尊流院の庵室を継いでいます。以来、五流五家の院家として、長床結衆は頼仁親王から出ているのです。頼仁親王の陵は諸興寺のあった木見にあり、大正7年に宮内省の所管に、現在は宮内庁の管轄になっています。
 同じく後鳥羽上皇の皇子桜井宮覚仁親王が熊野三山検校と新熊野検校を兼ねて児島に下向し、桜井親王と頼仁親王は隠岐で崩御した後鳥羽上皇のために供養の石塔と廟を建立しました。この宝塔は国の重文に指定され、五流尊流院の境内、熊野神社の駐車場の北側にあります。
 頼仁親王の長嫡道乗上人の子のうち、後に尊流院を継いだ頼宴大僧正の三男三郎が外戚三宅範長の家を継いだのが、後醍醐天皇に忠誠を尽くした忠臣として『太平記』に登場する児島高徳です。児島高徳は『太平記』の作者小島法師ともされています。
 応仁の乱で堂宇を焼失しますが、明応6年(1497)に本殿が再建されます。この時、神領の過半が没収され、その後も武家の覇権争いの中で衰微していきますが、大内・毛利が中国路に覇権を及ぼすようになるとその外護を得ます。しかし、豊臣秀吉の中国攻めに応じなかったため、神領の一部が没収されました。その後、岡山藩主池田家が備前国を治めるようになると、池田家の支援により堂宇の再建が進み、復興しました。

明治の神仏分離令
 明治初期の神仏分離令により、僧院と神社が強制的に分離させられ、さらに明治5年の修験道廃止令により、児島の五流修験は存亡の危機に瀕します。やむを得ず、五流尊流院は天台宗寺門派に所属することで法統を守ってきましたが、宗教団体法により昭和16年に天台宗と合同させられました。
 昭和20年に宗教団体法が廃止されると、全国に散在していた修験者が集まり、五流修験道として独立し、昭和21年3月に宗教法人として登記し、10月には「修験道」として登録します。現在は全国に寺院、教会、祈願所など300余、千数百名の所属教師・僧侶を擁して、修験の法統を守っています。
 神仏分離令で神社として残ったのが「日本第一熊野十二社権現 熊野神社」で、寺院として残ったのが「修験道総本山 御庵室 五流尊流院」です。熊野神社は近年、参拝客が増加、海外からの参拝客も来るようになり、ホームページや英文のパンフレットなども準備して参拝者の増加に努めています。
 児島の五流尊流院は全国の修験道の総本山として、全国の修験者を束ね、修道や加持祈祷などを通して霊験を明らかにしています。同院には、紀尾井坂で暗殺された大久保利通が乗車していた英国製の馬車が、永代供養のために大久保家より寄進され、保存されています。境内の三重塔と室町時代の梵鐘は県の重文です。
 平成15年、五流尊流院所有の長床が失火により焼失しました。長床とは熊野十二社権現を拝して長床衆の修行場として建てられていた建物で、一部を神社の社務所として使用していました。この長床拝殿は平成19年に再建されました。
 明治の神仏分離令により、熊野神社と五流尊龍院に分けられた新熊野権現ですが、古来より神仏習合の道場として栄えてきたところです。現在の参拝者の多くは、熊野神社と尊流院の境も、分離された経緯も知らずに参拝しています。
 熊野十二社権現の背後の山に鎮座しているのが福岡神社です。かつて古くはこの辺りは金属加工や焼き物の工房があり、秦氏との関わりも伝承されています。現在の福岡県や福岡市の「福岡」の地名の起こりは、刀剣や備前焼の産地に近い備前福岡(現瀬戸内市長船町福岡)とされていますが、さらに遡れば、児島林の福岡が起源です。紀州熊野も秦氏との関わりが強く、宗教的なつながりも含めて深い因縁があるところです。
 私が故郷の岡山に還って結成した「吉備歴史探訪会」も15年以上になり、この間多くの史跡や社寺など訪ねた中で、とりわけ熊野神社と五流尊衆院は印象深く、何度も参詣しています。ここは児島の中心に位置する由加山にも近く、江戸時代ては讃岐の金毘羅宮との両参りの参拝客がみな立ち寄ったところです。今は児島は陸続きの半島ですが、かつては吉備の穴海と呼ばれた内海で隔てられた島でした。古代からの瀬戸内の文化を継承してきた地であることを実感します。
(2019年12月10日付758号)