宗教改革と修道院運動

キリスト教で読み解くヨーロッパ史(8)
宗教研究家 橋本雄

イエズス会のザビエル
 日本に宣教で来たフランシスコ・ザビエルは、今はスペインのバスク地方の人だ。一般にバスク人は頑固で気性が激しいと言われる。牛追い祭り(実際は人間が牛に追われる)で有名なパンプローナもこの地方で、ザビエルはこのパンプローナ近くの地方貴族の家に生まれた。
 バスク地方はスペインとフランスの境界に位置し、両大国の間で紛争に巻き込まれて来た。ザビエルの生まれた小さな王国もそのために崩壊し、スペインに組み込まれた。失意のうちに父は亡命先で亡くなり、彼も貧困に苦しんだ。
 やがて、パリ大学で神学を学ぶようになったザビエルは学生寮で、敵側で戦っていたスペインの兵士、イグナティウス・ロヨラと同室になった。イグナティウス・ロヨラもバスク人なのは、運命の不思議か。ザビエルはロヨラに心酔し、やがてイエズス会という修道会を一緒に立ち上げることとなる。ザビエル28歳、1534年のことである。このような巡り合わせがなければ、ザビエルは日本には来なかったであろう。

宗教改革と修道会
 以前からカトリック改革運動はあったが、ルターが1517年にドイツで起こした宗教改革は燎原の火の如く北ヨーロッパを飲み込み、カトリックは多くの信者を失った。宗教改革は単なる宗教問題ではなく、当時のヨーロッパの政治や社会そして人々の生活までも変えた大きな革命であった。
 カトリックとプロテスタントの対立の要点は、「信仰と行為、聖書と教皇の権威(聖伝)」を主張するカトリックに対して、あくまでも「信仰のみによる救済と聖書中心主義」にあった。宗教改革は教皇権を否定し、カトリックに抵抗・プロテストしたのである。
 教皇や教会を通さなくても神と通じられるとするプロテスタント信仰は、カトリックにとっては到底受け入れられるものではない。やがて各地で対立と闘争が発生し、ドイツは人口の3分の1を失ったという凄惨な宗教戦争が、1618年から1648年まで30年にわたって続いた。これが一応拾集されたのは1648年のウェストファリア条約によってである。
 ルーテル派はドイツを中心に拡大し、やがてカルビン派、英国国教会などがカトリックから分かれていった。結果としてカトリック教会は多くの信者と献金・寄進を失うことになる。
 ローマ教皇の狼狽もよくわかる。教皇はカトリック信仰の強化と安定、新しい信者と大地を求めて積極的に海外宣教に注力した。プロテスタントが海外宣教師を派遣する200年も前のことだ。
 そのような中で、イエズス会はカトリックの世界宣教に大きな貢献をした。ザビエルは聖徒パウロよりも多くの旅をし、伝道したかもしれない。宗教改革で多くの信者を失ったカトリック教会にとって、ローマ教皇に絶対服従を誓うイエズス会は頼もしく都合のいい修道会であった。

フランシスコ会
 宗教改革でカトリックが動揺する以前にも、世俗化したカトリックに対して、信仰の純化を求める修道会が生まれていた。アッシジの聖人フランシスコ創設のフランシスコ修道会である。13世紀にイタリアで生まれたフランシスコ修道会は、イエスの聖徒のような清貧なる生活を希求して、禁欲生活を徹底して托鉢生活を行った。フランシスコの「平和の祈り」はどこかで目にしたことがあるだろう。

 主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。
 憎しみのある所に、愛を置かせてください。
 侮辱のある所に、許しを置かせてください。
 分裂のある所に、和合を置かせてください。
 誤りのある所に、真実を置かせてください。
 疑いのある所に、信頼を置かせてください。
 絶望のある所に、希望を置かせてください。
 闇のある所に、あなたの光を置かせてください。
 悲しみのある所に、喜びを置かせてください。
 主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、愛されるよりも愛することを求めさせてください。
 なぜならば、与えることで人は受け取り、忘れられることで人は見出し、許すことで人は許され、死ぬことで人は永遠の命に復活するからです。

 ここにこそ修道院運動の精神が最も端的に現れている。これがフランシスコの作かどうかは別にして、彼がこのような精神を持っていたことは間違いないであろう。この清貧と清純な信仰は、当時の人々に大きな平安と慰労を与えた。
 13世紀の修道院運動は、カトリックの内部からの浄化運動であったとも言える。しかし、やがてローマ教皇に認定され教皇権に組み込まれると、その清貧の精神も形骸化してしまう。「カトリック信仰を守る」という大義は、他の信仰と考えを許さない偏狭なものとなり、異端審問と魔女狩りの先頭に立って、人々を震え上がらせた。フランシスコ会もドミニク会も同様に異端審問の先頭に立ったのである。
 修道会が愛と平安を与えずに恐怖を与えてしまう。創設者の精神はすっかりと忘れ去られてしまったのである。異端審問と魔女狩りは宗教改革以後はさらに強化された。
 フランシスコ会も海外宣教には熱心で、16世紀には日本にも宣教師が来ている。日本の地でイエズス会とフランシスコ会が火花を散らすこととなった。どの時代、どの世界でも創設者の精神が維持されるのは難しい。

リスボンの南蛮屏風
 ローマ教皇の要請に積極的に呼応し、世界に宣教師を派遣したのがポルトガルとスペインである。ザビエルもポルトガル王の要請でアフリカ喜望峰を回る航海をへて、アフリカ、インド経由で1549年に日本に来ている。
 宣教師や貿易商人が日本に到着した様子は、ポルトガル・リスボンの国立古美術館に展示されている、桃山文化の最高傑作「南蛮屏風」に描かれている。当時の日本人が驚愕したであろう黒人や、見慣れない象などの動物も描き込まれている。
 日本の屏風絵がはるか遠くヨーロッパ最西端のリスボンに来たことを考えると、身が震える感動を覚えたのは私一人ではないであろう。絵の右端には南蛮寺(教会)が描かれ、ミサの様子やイエズス会宣教師の姿も見ることができる。
 このポルトガルの海外宣教は植民地活動と表裏一体のものであった。したがって、当時の日本の武家政権は、カトリック宣教を抱き合わせにするポルトガル交易を拒否し、宣教師を追放した。そして交易だけで宣教をしなかったオランダに取って代わられた。カトリックの信仰維持と世界宣教に対して、修道院運動が尽くした貢献は計り知れない。
(2019年5月10日付751号)