法然(6)/叡山を下り、法難に遭遇

岡山宗教散歩(6)
郷土史研究家 山田良三

 黒谷の青龍寺で師叡空と論争した法然は、その後叡山を下りて、広谷を住まいとしたと諸伝は伝えています。しかし梅原猛氏は、百万遍知恩寺に伝わる伝承から、法然は最初、鴨川の河原に草庵を作り住んだと推察しています。後の伝記の著者たちが、「広谷」に居住したと書いたのは美化ではないか、というのです。
 法然の弟子源智がこの賀茂の河原に、後に知恩寺を建てます。知恩寺はその後各地を転々としますが、境内に加茂明神鎮守堂があり、賀茂氏あるいは秦氏との関りがあることからも、法然がこの地に草庵を結んだのだろう、と梅原氏は推察しています。
 叡山を下りた法然は、やがてその学識で広く人々に知られるようになり、武家や公家にも法然に救いを求める人々が続出しました。
 その名声を一層高めたのが、有名な「大原問答」です。博学な僧侶たちが大原に集まり論争を続けましたが、法然の学識に勝るものは誰もいませんでした。この時、大原にやってきた一人が重源で、弟子十数人を連れていました。法然の学識に屈服した重源は、法然の重要な理解者となります。遊行僧であった重源は法然に相通じる世界を感じたのでしょう。平家の南都焼き討ちで焼失した東大寺の勧進職に就くことを勧められた法然は、それを辞し重源を推薦しました。東大寺の再建がほぼ完成したころ、重源は法然を招いて浄土三部経の講義を聞く会を開いています。
 武家出身で法然の弟子となった代表が熊谷直実で、直実は自ら法然のもとに押し掛けるようにして出家し、法力坊蓮上と名乗りました。法然の願いを受け、師の自刻像を背負って誕生地を訪れ、師の生家を寺にしたのが誕生寺です。
 法然の庇護者の代表が九条兼実でしょう。九条兼実は法然から何度も灌頂を受け、法然が戒師となりの戒師で出家もしています。法然の唯一ともいえる著書『選択本願念仏集』も九条兼実の要望に応えて書いたものです。のちの法難で四国に流されたときには、九条兼実の働きで流刑地が土佐から讃岐に変更されています。法然の弟子になったのは源氏や平家の武士や公家たちで、いずれも騒乱の犠牲となった人々でした。
 法然の名声は高まるばかりで、それに反発する叡山や南都の僧たちは、「念仏停止」を求める動きを強めます。そんなとき、法然の弟子たちが、当時の最高権威者である後鳥羽天皇が熊野詣をしている間に、天皇寵愛の女御たちを出家させてしまう事件が起こります。熊野詣から帰り、そのことを知った後鳥羽天皇は激怒し、2人の弟子の処刑と法然ほか主要な弟子たちの流罪を決定します。これが「建永の法難」です。
 香川県善通寺市の善通寺は弘法大師空海の生誕地として知られています。私は何度か訪れたことがあり、今年3月にも吉備歴史探訪会の人たちと行ってきました。この善通寺南門の右手に「法然上人逆修塔」があります。「逆修塔」とは、人が生前に建てる自らの供養塔のようなものです。
 法難で土佐に配流されることになった法然ですが、九条兼実の配慮もあり、配流先が讃岐に変わります。この配流を、法然は前向きに受け止めていました。
 15歳で比叡山に登った法然は、前半生を経堂に籠って修道し、京の都に下ってからは、貴賤を問わず人々に教えを広めました。その間、遊学や説法で東大寺を訪れた以外、一度も都を離れたことがなかった法然は、初めて地方に行けることを喜び、しかもその行き先が尊敬してやまない弘法大師の故郷だと聞いてさらに喜んだと伝えられています。
 讃岐に着いた法然は、さっそく弘法大師の生誕地、屏風ヶ浦の善通寺を訪れました。そして、感謝の気持ちで「逆修塔」を寄進したのです。弘法大師への尊崇の思いとともに、この地で生涯を終えることも決意しての寄進だったのでしょう。
 善通寺の境内には「親鸞堂」もあります。師の法然が善通寺に塔を寄進したことを聞いた親鸞は、自らも讃岐に行きたい気持ちを弟子に託し、自刻像を善通寺に奉納したのです。その自刻像を奉っているのが「親鸞堂」で、親鸞も法然とともに弘法大師を尊崇していたことがわかります。
(2019年5月10日付751号掲載)