瀧尾神社の木彫り天井龍
連載・京都宗教散歩(26)
ジャーナリスト 竹谷文男
京都市東山区に鎮座する瀧尾神社の拝殿には、見事な木彫りの龍が天井を這っている。長さ約8メートル、日本最大の木製合わせ彫りの龍である。昨年12月この龍を見に同神社を午前中に訪れたが、陽の光が強すぎて見づらかったので、日暮れ時に再び行って拝殿の舞台にまで入れて頂いた。見上げると、龍は空を飛ぶように身をくねらせ眼光鋭く、力強い。
台湾からの旅行者数人に聞くと、「この龍を夢で見たので、探してやって来た」と言った。夢で龍を見たという女性は、拝殿の柱や、下がっている提灯を撫でながら「とても気持ちのいい『気』が伝わってきます。龍神様の良い波動です」と話した。
この龍は、江戸後期に京都で活躍した名彫物師九山(くやま)新太郎が、天保11年(1840)ごろ彫った。像は、幾つかの大木から切り出した無垢材で、木目や色、節などの配置を考えながら組み合わされた。龍は余りにも精緻に彫られたため、夜な夜な水を飲みに近くの今熊野川へと抜け出したという。そのため天井に金網を張って防いだそうだが、今はない。
この龍を手本に造られたという「金龍」が2年に一度、京都市内を練り歩く。日本三大祭りの一つ京都祇園祭の後祭に巡幸する山車の一つ、大船鉾の船首にはこの龍を手本にして造られた大きな金の龍頭が、2年に一度、付けられるからだ。
彫物師の九山家の一派は江戸時代、祇園祭の大船鉾の龍頭を手がけてきたが、その龍頭は幕末に起きた禁門の変(元治元年=1864、蛤御門の変)によって焼失してしまった。大船鉾は2016年に再現され、新しい龍頭は瀧尾神社の龍が手本だった。
この瀧尾神社を篤く崇敬していた商人に、大文字屋(後の百貨店「大丸」)の創始者下村彦右衛門(1688~1748年)がいた。伏見の京町に住んでいた彦右衛門は、行商へ行く道中にあったこの神社に毎朝、欠かさず参拝していた。
彦右衛門は、「道義を優先して利益を後回しにせよ」という荀子の言葉「先義後利」を理念とし、それは現在の大丸にも受け継がれている。彦右衛門の日頃の言葉は『遺訓諸録雑集』に収められているが、例えば「客には相手に聞こえない場であっても、敬称を付けるように」、「大名の御用でも子供の使いでも、客に上下を付けてはならない」、そして「商品は5厘でも安く買え。しかし、家は売り手も苦しくなって手放すものであるから(家を買い付ける際には)少し高めに買ってあげよ」などがある。彦右衛門の立志伝は『大丸繁盛記』として幕末から大正初期にかけて、講談で盛んに語られた。彦右衛門は55歳ですべての商売の権利を長男に譲って隠居し、現在の四条長刀鉾町にあった隠居宅で、読書や茶の湯などをして老後を楽しんだ。
瀧尾神社は、その下村家から代々崇敬され、天保10年(1839)から翌年にかけて2500両(現在の貨幣価値で約5億円)を寄進され、拝殿、手水舎、絵馬舎などを整備した。天井の龍も下村家に長く勤めた関係者によって寄進された。大丸はその後、幕末維新の混乱期を乗り切り、四条通りに店を出す老舗として京都では知らない人はない商店となっていた。大丸百貨店の京都での通称は「下村大丸」だった。
大丸の当主は代々「正太郎」の名を受け継ぎ、明治から昭和期の第11代下村正太郎(1883~1944年)は1907年、一時傾いた家運を建て直すために、早稲田大学を中退して再建のために社長に就任した。そして、江戸以来の呉服商を近代的経営にしようと改革に着手し、翌年ヨーロッパのビジネス環境を視察した。
正太郎はこの時、16世紀イギリスで流行したチューダー様式の建築に感銘を受け1932年、京都御所の南西の角の向かい、烏丸丸太町に私邸を建てた。設計はヴォーリズ建築設計事務所で、当時としては珍しいチューダー様式の鉄筋コンクリート3階建ての洋館、庭はイギリスの古典主義風だった。
正太郎がこの私邸を建てた翌1933年、ドイツ人建築家ブルーノ・タウトが来日し、下村邸を訪れて気に入り、互いに交遊を楽しんだ。タウトはこの時、桂離宮(京都市西京区)を訪れその美を高く評価し、日本の建築美を世界に紹介したことはよく知られている。タウトはその後トルコに移り住み、首都アンカラの近くに建国の父ケマル・アタチュルクの墓を設計したが、その入り口には神社の鳥居に似た簡素な門構えを配した。
正太郎の私邸だったこの洋館は一般に「大丸ヴィラ」と呼ばれ、昭和初期の京都を代表する洋風住宅として京都市登録文化財に指定されている。大丸ヴィラから、創業者の下村彦右衛門が隠居して読書や茶を楽しんだ場所までは、烏丸通りを南に歩いて十数分である。
(2024年1月10日付 807号)