平清盛造成の平安ポートアイランド

連載・神戸歴史散歩(3)
生田神社名誉宮司 加藤 隆久

清盛塚にある清盛像

大輪田泊を整備
 神戸港の昔の名前は大輪田泊(おおわだのとまり)で、奈良時代に行基が開いたとされる播磨・摂津の五つの港の一つ。いずれも現在の兵庫県内にあり、ほかの四つは室生泊(たつの市御津町)、韓泊(姫路市的形町)、魚住泊(明石市大久保町)、河尻泊(尼崎市神崎町)。現在の神戸港西側の一部に当たる大輪田泊は、12世紀後半に日宋貿易を目指した平清盛による大修築で知られる。
 日宋貿易の拡大を目指す清盛は、兵庫の山手にある福原に居を構え、そこから約2・5キロ南にある大輪田泊を整備して、大型船が入港できるようにし、福原に遷都した。当時、宋船が入港できるのは博多までで、663年の白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の敗戦以来、防衛のため都に近い瀬戸内海には入れなかった。権力を握った清盛は、その方針を強引に転換させたのである。
 大坂の港にしなかったのは、淀川から流れ込む土砂で水深が浅かったのと、陸揚げの権利を東大寺が持っていたからだ。宋船の荷物を博多で積み替えた日本の船は、大坂湾で小さなはしけに荷を降ろし、陸揚げしていたが、朝廷はその権利を東大寺に与えていた。清盛は既得権益から自由な港を開こうとしたのである。
 大輪田泊は古代から中国や朝鮮の使節が立ち寄る港だったが、季節により南東の強風が吹いた。強風と荒波を防ぐには、沖合に突堤を築く必要があり、清盛はJR兵庫駅の北にある塩槌山(しおづちやま)を切り崩し、その土砂で人工島を造ろうとした。

雪見御所旧跡の石碑

 しかし、いくら石を積んでも波にさらわれ、工事は困難を極める。迷信深い貴族らが、海神の怒りを鎮めるために人柱を立てるよう進言したが、清盛は聞き入れず、代わりに一切経を書いた経石を海に沈めた。それ故、この人工島は「経が島」と呼ばれ、現在も地名に残っている。12年にわたる大工事で、承安3年(1173)に大輪田泊は完成した。
 当時、宋から輸入されていたのは、宋銭をはじめ陶磁器や絹織物、香料、薬品、装飾品、獣皮、硝子製品、硯や筆、絵画などの美術品や仏像、書籍で、中にはオウムもあった。
 対価として、日本からは銅や硫黄などの鉱物や木材のほか、日本刀などの工芸品が輸出されていた。それらが宋では貴重品だったからである。商品の交換が大きな利益をもたらすことは商人らに知られていた。
 宋からの輸入品で日本経済に大きな影響を与えたのが、清盛が首飾りにもしていた宋銭である。日本の貨幣は708年の和銅開珎に始まるが、実際にはそれほど通用しておらず、商品交換の通貨としては、米や絹がもっぱら使われてきた。宋銭の導入で日本も貨幣経済に移行し、急速に発展していく。
 大河ドラマに合わせ、神戸市に開設された「大河ドラマ館」に、福原と大輪田泊のジオラマが展示されていた。清盛の経が島は、平安時代の大規模プロジェクトで、清盛は国際貿易港神戸の生みの親でもある。だから、「奢れる平家」と評判の悪い清盛だが、神戸市民は昔から清盛を敬愛していた。

神戸「ドラマ館」にある福原・大輪田泊のジオラマ

 例えば、神戸市役所が大正14年に発行した『神戸市民読本』には、「彼(清盛)が先見の明に富み、勇断進取にしてあくまでも積極的に物事をやりとおすという点については、大いに吾人の学ばなければならぬところである」と記されている。神戸の清盛観は大河ドラマの清盛像に近い。
 清盛は当初、この大規模公共工事を私費で始めた。領地や貿易からの利益を、港湾整備に投じたのは、地位が低く、朝議をリードする力がなかったからだ。高い冠位を貪欲に求めたのも、権力を手にして国の将来のため良かれと思う政治を行うためである。
 今、大輪田泊の故地を歩くと、ほぼ埋め立てられ、工場などが立地している。古い港は運河となり、大輪田橋などの名称に痕跡を留めている。
 神戸を離れるが、広島県呉市にある「音戸の瀬戸」は、本土と倉橋島の間にある幅70メートルの海峡で、宋の大型船が通れるようにするため、清盛が開削したと伝えられている。工事を1日で完了させようとした清盛が、沈んで行く夕日を扇で招くと、太陽が動きを止め、逆に天空に昇り、その日のうちに終えることができたという。
 音戸の瀬戸を切り開いた清盛は、人柱の代わりに経文を書いた経石を海底に沈め、難工事を完成させたというのは、福原に築いた大輪田泊の「経が島」と同じ話だ。
 音戸大橋を見下ろす高台に、小説『新・平家物語』の取材で昭和25年に当地を訪れた吉川英治が、倉橋島にある清盛塚に向けて「君よ今昔之感如何」と書いた文学碑がある。
 吉川は昭和10年に連載を始めた『宮本武蔵』が人気を博したが、戦争を鼓舞する作品を書いたことへの悔恨から、戦後、筆を取れなくなってしまう。戦後知識人の軽薄な言動を見ながら、大衆作家としての自分の在り方を深く考えていたのだろう。執筆を再開したのは昭和22年の『高山右近』で、23年に『新・平家物語』の連載が週刊朝日で始まった。
 吉川が描く清盛は、それまでの悪人イメージを一変させるもので、戦いを嫌いながらも、時代の流れの中で戦わざるを得ない、昭和の日本人を投影するものだった。戦後民主主義に偽善を感じ取っていた大衆は、人と歴史の実相を描く吉川の小説に共感し、週刊朝日は驚異的に売り上げを伸ばした。吉川が国民作家と呼ばれるようになったゆえんだ。
 平清盛が行った大輪田泊の修築は、今で言うなら1966年から2010年にかけて造成されたポートアイランドだ。山が海に迫り、平地の少ない神戸市は、六甲山を切り崩し、その土で神戸港を埋め、人工島を造った。計画の最後は神戸空港である。人工島には工場やマンションが建てられ、その収入で造成工事を賄った。優れた都市計画だと評価され、「神戸株式会社」という言葉も生まれた。

福原京に遷都
 大輪田泊近くの清盛塚に立つ清盛像の顔は、好々爺のように穏やかで、海に向けて手を差し出している。「奢れる平家」という感じではない。
 近くの和田神社は、修築事業の無事と福原の繁栄を願う清盛が、宮島の厳島神社から海の神である市杵嶋姫(いちきしまひめ)大神を勧請して創建したもの。今は街の中にあるが、当時は海に臨んでいて、境内には弁才天も祀られている。
 熱病に倒れ、死線をさ迷った清盛は、奇跡的に回復すると、福原の建設に直進する。命の有限を実感し、残された時間を、一番大切なことに使おうとしたのだろう。法華経を自ら写経し、厳島神社に納めるほどの信仰に、神仏が働いたのかもしれない。
 それほどの思いで築いた福原を、清盛はこよなく愛した。仁安4年(1169)、福原に別荘を構えて以後、治承5年(1181)に64歳で没するまでの11年間ほとんどここで暮らしている。都での政治と軍事は、長男・重盛ら息子たちに任せ、11年間で20回しか上京していない。しかも、用事を済ませると、すぐに福原に帰っている。彼の居場所は福原であり、福原にいてこそ生きる意味を感じたのであろう。
 日宋貿易の利のためというと、経済感覚に優れた人物になるが、清盛像を見ていると、それよりも福原を故郷とし、その土になろうとした人という印象が強い。
 福原の都は、大輪田泊を見下ろす山の手に築かれた。神戸市兵庫区の神戸大学医学部附属病院の北側に、荒田八幡神社がある。清盛の弟・頼盛が山荘を構えた所とされ、後に孫・安徳天皇の行在所になった所で、境内に「安徳天皇行在所址」と「福原遷都八百年記念之碑」の大きな石碑が建っている。
 福原の故地から長い石段を登ると祇園神社がある。清盛はこの裏山から海を見下ろし、経が島築造の構想を練ったという。なるほど、境内から神戸市内と港が少し望める。当時は海が一望できたはずで、清盛にとって一番楽しい時間だったのではないか。
 近くにあった鉱泉が湧き出る湊川上温泉は、別名「清盛湯屋」。清盛の住まいの一つがここにあり、湯に浸かっていたからだ。今も庶民の湯として、やすらぎを提供している。
 川に沿って山すそを少し下ると、湊山小学校の脇に、雪見御所旧跡の石碑があった。揮毫したのは生田神社の田所千秋宮司(当時)。源平の時代、播磨から摂津一帯は清盛が管轄し、八田部郡と呼ばれたこの辺りには、生田、長田、敏馬(みぬめ)の三社があったから、清盛も生田神社に詣でたことだろう。後に生田の森は源平合戦の戦場となる。
 そこから山すそを西に歩くと、後白河法皇が幽閉された平教盛の別邸跡に、氷室神社がある。社殿の奥に回ると、冬に取った氷を夏まで保存した洞窟があった。

かつての大輪田泊辺りの築島水門

 その南にある熊野神社は、清盛が王城鎮護のため、紀州から熊野権現を勧請して創建したもの。深い緑が海に迫る熊野は、古来、あの世への入り口のように思われ、日本人の信仰心をはぐくんできた。そこに、インド・中国渡来の観音信仰や、極楽往生を希求する補陀落信仰が混じり、独特なパワースポットを形成している。
 福原に託した都の夢は、わずか半年で消えてしまうのだが、今の神戸を歩くと、千年の時を経て、その夢が実現されている。神戸人でなくても、深い感慨が湧いてこよう。
 清盛によって国際貿易港になった大輪田泊は、鎌倉時代に兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれるようになるが、活動は細々としたものであった。
 室町時代になると、第3代将軍の足利義満は、博多商人より明との貿易が莫大な利益を生むことを聞き、明と国書を交わして、明との間に国交と通商の合意を成立させた。これにより、兵庫津は日明貿易の拠点となり、発展する。
 江戸時代には北前船で国内航路が活発になり、兵庫津は最盛期を迎えた。幕末の頃には約2万人が住んでいたといわれる。大輪田泊には古代の山陽道が、兵庫津には江戸時代から山陽道が名前を変えた西国街道が接し、陸と海との接点を形成して古代からの物流の拠点だったのである。幕末の神戸開港からは別の章で述べることにしよう。
(2024年5月10日付 811号)