『女坂』『朱を奪うもの』円地文子(1905~86)

連載・文学でたどる日本の近現代(41)
在米文芸評論家 伊藤武司

円地文子

男の時代に対抗
 円地文子は明治38年、言語学者・国語学者の上田萬年(かずとし)の二女として東京市浅草区(現・台東区浅草橋)に誕生。東京帝大教授の父は現代国語学・言語学の基礎を築き、文芸にも明るく、貴族院議員にもなった。父母、祖母が歌舞伎・浄瑠璃が好きで、怪談など江戸の大衆芸能を趣味とし、文子は幼少期に祖母に連れられて歌舞伎を鑑賞、『八犬伝』や『牡丹燈籠』『田舎源氏』『落窪物語』『椿説弓張月』などにひたりながら育った。一見、お嬢様のような環境だが、江戸っ子の激しい気性も持ち合わせていた。
 教養ある家族の中で何不自由なく育った円地が人生の問題に直面した始まりは、第一志望校への推薦が拒否されたこと。さらに、女学校の勉学に飽き足らず中退してしまう。現実の社会が容易でないことを知り、独自の道を選ぶことで世間に立ち向かった。
 女学生時代には谷崎潤一郎、永井荷風らをはじめキーツやワイルド、ポー、バルザックを乱読、耽美主義的な創作を始めた。新劇の小山内薫に心酔した円地は23歳で戯曲を発表し、戯曲作家としてデビュー。同時に随筆や評論も書き、後に小説家へ転向するが、しばしば戯曲を執筆し、他人の作品の脚色にも手を染めている。
 男ばかりの文壇に女性が認められるためには、立派な作品を世に出すしかない。小説『女坂』の最初の12章を断続的に発表していた48歳の時、短編『ひもじい月日』を「中央公論」に掲載し、正宗白鳥や平野謙から褒められ、女流文学者賞を受けた。
 物語の女主人公は、敗戦後の貧しさを生きるさく。「背中の左の尻よった方に、掌ぐらいの赤痣」があって、「人生の曲がり角ごとにその痣が通せんぼうしていたような」彼女が、ようやく結婚にこぎつけた時は30に近く、妻と死別した利己的な夫であった。そして、脳卒中で寝たきりの夫の介護に疲労困憊し、風呂場で洗濯中に頓死してしまう運に見放された女の一生で、この一作に円地文学の基調が込められている。
 円地は作家として不遇であったが、その創作力は作品群が証している。昭和32年に『女坂』で野間文芸賞を獲得、ベストセラーとなり英訳もされた。江藤淳は「昭和期の文学を代表する傑作のひとつ」と激賞、丹羽文雄も「たのもしき、驚異的な作家である」と論じ、高見順は「現代文学のなかの稀有の傑作…すぐれた作品の持っている迫力に打たれた」と褒め上げた。同時期に『朱(あけ)を奪うもの』や短編集『妖』を出し職業作家の地盤を固めた。
 『女坂』は白川倫子(ともこ)の忍従の生涯を描く。母方の祖母をモデルに妻と母と祖母の苦悩、葛藤、侮蔑、悦びなどを、細やかに、大胆に描き分けた。日本情緒ただよう文体に女の情念や業が色濃く匂い立つ。国文学者・吉田精一は「一種の妖気のただようなまめかしさを発散」していると記した。
 倫子が生きたのは、鹿鳴館や自由民権運動、帝国憲法制定の動きが盛んな、旧道徳でしきられた男の時代。夫の行友は細川藩の下級武士の出で、藩閥政府の能吏として福島県庁や警視庁に職をえていたが、憲法発布後に引退。白川家は広大な敷地に夫婦と子供たちに親族、妾と女中らが同居していた。身勝手で淫蕩な夫の下で、家風を尊重し、姑、小姑に従うのが嫁の美徳とされた時代で、二人の妾は使用人扱いであった。「男尊女卑を骨の髄まで滲みこませている」行友は「藩主の様な専制君主」で、倫子はじめ家族は「癇癪の強い主人の気質に調子を合わせなければ一日もこの家の中で心安くくらしてゆくことは出来ない」。明治憲法下の民法で定められた家制度の世には、婚姻には戸主の同意が必要で妻に実権はなかった。倫子は「ようやく振り仮名つきの文字が読める程度の教育しか受けていなかった」が、教育の必要性を知り、孫で一高生の鷹夫が欲しがる和漢洋の書籍を「惜しげもなく買い与え」ていた。
 怜悧な孫は、小説はじめギリシャ悲劇や哲学など手当たり次第に乱読する。ところが、白川夫婦の長男・道雅は「他人と親しむことの全く出来ない片輪な性質」であった。倫子は「若隠居同様に暮らしている」「不肖の子」をみるのが母親として「二重の辛さ」となり「嫌悪に捕らえられる」。齢よりも老けて見える彼女は夫と心が通じず、叱責と命令に抑えつけられ、「自分さえ辛抱すれば」皆うまくいくと「夫と家とを大切に思う」封建的なモラルに自らを縛り、「油断なく家事に心をつかって暮らしていた」。

半自伝的な作品
 『朱を奪うもの』一部の主人公は戯曲作家の滋子で、この物語の語り手である。「温室育ちの」少女時代から大人になるまでの滋子の経歴、書物の知識、非現実な劇場の世界を身体に棲まわせている女性像を、知的な自己欲求を込めながら回想風に書いている。あたかも能や歌舞伎・芝居を演ずるように、人々の演技を生き生きと活写する。物語のクライマックスはインテリの「学究研究者」宗像勘次との見合いから結婚までの最終章の行状。
 磯田光一はこの第一部を「物語から得た人生の観念を実証してみたい衝動に貫かれていることを、作者は明敏に見ぬいている」と評論「女における祭儀」で示唆。つまり円地は、「滋子のいだいている夢想がけっして実現しえないことを知りぬいて…現実の力によって浸蝕されていく過程を描ききっている」ところに特質があると分析した。評論家の青野末吉は「不思議に深く食い込んでくるもののある作品」とコメント。この作が「自伝的という形容詞が使われる」との評に対して、円地は「私小説作家ではない」と否定するが、「自分の実生活をもつき交ぜて、現実は小説の素材だと思っている」という自身の言葉が心に残る。
 つまり、当作が円地の半自伝的な作品であることは間違いなく、虚構のストーリーと実生活が濃密につながっていることは三島由紀夫や江藤淳の指摘を待つまでもない。序章に円地の心の奥底をかいま見せている鮮烈なシーンがある。数本の歯を抜かれて寒々としている滋子は、過去に二度「身体をメスで切り裂かれ蝕んだオーガンを抉り出されていた」。右の乳と子宮ガン摘出の大手術を受けた記憶がよみがえる。
 この筋書が文字通りではないとしても、終戦直後の42の時、子宮を失い、重度の肺炎に罹ったことは事実。その苦痛や苦悩に苛まれた心の傷を抱えながら創作にいそしむ姿は、創作と現実の境界線が定まらない夢想の心境といえる。記憶の糸をたぐりよせれば、「もの心ついたころから生(なま)の人間を見失っ」た滋子は、祖母が語ってくれた江戸末期の庶民の「馬琴や種彦の読本草双紙の世界」や「演劇的な感興に昂奮して華麗な色彩と光線の間に生きることを覚え」「光嫌いの」人間になっていった。
 シェークスピアは「世界は一つの舞台、男も女も人はみな自分の役を演じている」の名言を遺し、円地は戯曲や小説で一つの舞台を設け、登場人物に己を演じさせている。滋子と円地は心理や形象においてかなりの部分で重なり、「人工の光線に染められていた」主人公とはまさに「一種の物語作者」と自認する円地でもあり、主人公が作家という作品がその後も登場する。
 随筆『古典とともに』には故郷に触れて、「東京は広すぎて故郷という感じにはなれない」が、「読書の世界では、私には明らかに故郷があり、それが日本文学の古典である」と記す。『源氏物語』のもつ「文章のすさまじい美しさ」に瞠目し、古典の一番が『源氏』であることを示している。
 『女面』は短編『妖』に想像力を加えた女の執念とオーラのある内容で、谷崎が絶賛。三島も「戦後にあらわれたもっともユニークな小説の一つであり、円地さんの古典的教養と美意識が混然となって醸し出した芳醇な美酒である」と評価している。
 「現実は小説の素材」と説く作者は別の対談で、「書くことは、何といっても自己顕示です」と独白。ここを原点に、創作活動を「憑霊的な現象」「巫女的なもの」というユニークな素材に注視し、文学的に深化させた。円地文学の独創性はここに求められる。トーンの重い端正な言葉づかいによる造形は、『妖』の千賀子、『女坂』の倫子、『彩霧』の川原悠紀子に結ばれ、それぞれの個性的なきらめきや妖艶美、なまめかしさを大胆に表現している。談話では、憑依や巫女的事象に関心をもったのは、光源氏の恋人・六条御息所の霊がほかの女に憑依するくだりに惹かれたからという。
 随筆集『女を生きる』の回想文「目白雑司ヶ谷」に、「私は早くからいくらか自分の裸かの値打ちを知ることができ、そのことが私を光嫌いな少女にしたことも争えない」とあるのは本音であろう。「男性を描くのに意地悪い眼をもっている」と言われ、「現実の私は結構男に甘い女なのに…」と随想『女の秘密』の「女のひそひそ話」で別な顔をのぞかた。円地文学には、幼少期の江戸末期の戯作文学の情緒や男女の性的な情痴、そして古典の美的形象の影響があり、これらを日本特有の美的感覚と組みあわせて女性の普遍的性を探求している。

女性作家の頂点に
 円熟期は「自分の能力を精一ぱいに仕事の上に出せるようになった」50~60代で、昭和41年、61歳での『なまみこ物語』は、平安朝の道長の世に、憑依や女の妖精的な働きをふくらませ、女流文学賞を得た。昭和44年に女性として初めて谷崎潤一郎賞を得たのは、長篇三部作『朱を奪うもの』『傷ある翼』『虹と修羅』。昭和47年、日本文学大賞を受賞した小説『遊魂(ゆこん)』は下賀茂神社の葵祭を見守る老女・加古川蘇芳(すお)が主人公。『源氏』の六条御息所の霊性の働きをモチーフに、蘇芳に憑依する情念、愛執、歓喜を現代風にアレンジした。
 円地は、伝統的古典の深い造詣と風趣に富んだ現代語訳の『竹取物語』『和泉式部日記』『夜半の寝覚』『雨月物語』『蜻蛉日記』なども手がけ、68歳での現代語訳『源氏物語』全10巻は日本文学大賞に輝いた。
 女性としての自意識と静謐な矜持をもつ円地は、しっかりした作風に、女性の身のこなしや言葉づかいなどを包み込む。「女」の一語をかぶせたタイトルが多く、『母娘』『ひとりの女』『帰らぬ母』『女の秘密』『浴衣妻』『夢みぬ女』『女の道化』『貴婦人』随想集『女ことば』随想集『女をいきる』『女の繭』『恋妻』『才女物語』『あざやかな女』など。
 『女坂』の倫子の半生は与謝野晶子や、有島武郎の『ある女』の葉子、国木田独歩の『不如帰』の浪子に似ている。倫子の妻の座が夫の女狂いに揺らぐことはなく、「髪の毛一筋の亂れも見せまいと…以前よりも生々と家内のものに接した」などは、有吉佐和子の『花岡青洲の妻』の盲目の加恵にそっくり。疎外された日々の中で、倫子は密かに夫への怒り、恨みのエネルギーを溜め、臨終まぎわに爆発させる。自分の「死骸を品川の沖へ持って行って、海へざんぶり捨てて下されば、澤山でございます」と、「行友に立向う烈しい憤り」の情景はおぞましい。それは人生の果てに「倫子の耐えて来たすべての感情の鬱積」であり、苦労の人生を女の坂にみたて「抑えに抑えて来た妻の本念の叫び」であった。
 一方の『朱を奪うもの』の最終章にもこだわりを感じる。結婚直後、夫の呼びかけに応えて滋子は「ゆっくりねじ向いて離れた籐椅子の」勘次に「微笑んで見せた」。「滋子の仮面の顔は白い桜を背にして霞んでいた」と、人生を最後まで演ずる自身の気性をさりげない一文に託している。
 野上八重子の没後、円地文子は女性文学者のトップに立つ。昭和33年に就任した女流文学者会会長を51年まで務め、45年に芸術院会員、60年に女性作家として野上に次いで二人目の文化勲章に輝き、81歳で永眠した。
(9月10日付 803号)