災害を語り継ぐ宗教施設

2023年9月10日付 803号

 9月1日「防災の日」は大正12年(1923)同日の11時58分に発生した関東大地震の教訓から「広く国民が台風、高潮、津波、地震等の災害についての認識を深め、これに対処する心構えを準備する」ために制定された。今年は大地震から100年目になる。
 死者・行方不明者10万5千人の多くが東京府(今の東京都)だったため、震源地も東京と思われがちだが、地震学者の武村雅之名古屋大学教授によると、始まりは神奈川県西部の松田町付近で、同県下から千葉県の房総半島南部にわたって発生した。
 東京で大量の死者が出たのは木造家屋の密集地などから起きた火災が大きな原因で、とりわけ急速な工業化で居住が広がった隅田川東の軟弱地盤の地域がひどかった。木造住宅密集地域の問題は今も未解消である。

碑が語る歴史
 横浜市鶴見区にある真言宗智山派の東漸寺の境内に大川常吉の石碑がある。関東大震災の時、鶴見警察署長だった大川常吉は、朝鮮人暴動のデマが流れ、激昂した一部暴民が朝鮮人を虐殺しようとしたのを身を挺して抑え、多くの朝鮮人や中国人を救った。石碑は昭和28年(1953)、在日朝鮮統一民主戦線(朝鮮総連の前身)により建立され、同寺には大川の墓もあり、地元の児童・生徒が社会科の学習などに訪れている。
 関東大震災朝鮮人虐殺事件の犠牲者数は、政府が実態調査を行わなかったこともあり不明で、数百人から6000人、中央防災会議では震災犠牲者の1~数%、一千~数千人と推定している。 当時の記録では、民間人により殺害された朝鮮人は233人、内地人は58人、中国人は3人で、朝鮮総督府東京出張員は813人と推定している。
 後に映画監督になった黒澤明は13歳で震災を目撃しており、おびただしい死者の惨状は一生忘れられない、と自伝に書いている。また、黒澤の父親が長い髭を生やしているという理由で朝鮮人に間違われ暴徒に囲まれた話や、黒澤が井戸の外の塀に書いたラクガキを、町の人々が「朝鮮人が井戸へ毒を入れた目印」だと誤解し騒ぎになったこともあったという。未曽有の惨劇に殺気立ち、正気を失ったのである。
 話を戻すと9月2日、自警団が井戸に毒を入れたという4人の朝鮮人の男を連れてきた。彼らの1人がビンを2本持っていたので、井戸にビンの毒を入れたと騒ぎになったのである。大川は4人は東京に避難するところで、ビンの中身は毒薬ではないと自警団に説明したが、納得しないのでビンの中身を飲んで証明した。4人は中国人で、ビンはビールと中国の醤油だったという。
 しかし、流言蜚語は増すばかりで、朝鮮人が署内に収容できないほど連行されてきた。大川が彼らを總持寺に移動させると、3日に自警団は武器を持って同寺に集まり、朝鮮人の引き渡しを要求した。大川は朝鮮人を鶴見分署に移動させ、「朝鮮人が悪いということはない」と説得したが、群衆は騒ぎ立て、地元有力者らも追放を迫り、鶴見分署は千人以上の群衆に囲まれた。
 大川が「鮮人に手を下すなら下してみよ、憚りながら大川常吉が引き受ける、この大川から先きに片付けた上にしろ」と叫ぶと、相談した代表者数名が「警察が管理できずに朝鮮人が逃げた場合、どう責任をとるのか」と迫るので、大川が「切腹して詫びる」と答えると、「そこまで言うなら」と群衆は解散した。こうして朝鮮人220人、中国人70人が守られたのである。後に大川は、「当時あのような行動に出たのは自分でも意外で、あれほどの勇気を今になって持ち合わせているだろうか」と話していたという。
 在日コリアンの作家からこの話を聞いたソウルの病院に招かれた大川署長の孫の豊さんは1995年、病院スタッフ約200人に講演した。豊さんは「祖父がしたことはそんなに褒められることなのでしょうか」と語り始め、「当時、日本人が韓国朝鮮の方にあまりにひどいことをしたため、当たり前のことが美談になってしまった。私が日本人としてみなさんに申し上げる言葉は、これしかありません。『ミアナムニダ』(ごめんなさい)」と続けると会場は拍手に包まれたという。

物語が生きる力に
 大川氏の碑のほかにも、関東大震災にかかわる慰霊碑や記念碑が寺の境内などに数百基、地域の物語を語り継いでいる。長い歴史を有する寺や神社などの宗教施設は、それぞれの地域の記憶を留める場所でもある。近代的な博物館や美術館が建設される前は、寺社の宝物館などがその役割を果たしてきた。
 一人ひとりが物語を紡ぎながら成長するように、地域社会にも共有される物語があり、それがやがて文化として実を結び、人々の生きる力にもなっている。