日本近代史から見た国家と宗教

2023年3月10日付 797号

 明治4年から6年にかけて欧米12か国を視察した岩倉使節団は、全権の岩倉具視以下、政府首脳陣や留学生ら107人で構成され、日本近代化の政策に大きな影響を与えた。その使節団を一様に驚かせたのが、文明の先端を行く西洋諸国の人々の深い宗教心で、江戸時代の宗教政策もあり、日本人はそこまで宗教を信じていなかったからである。
 一方、使節団が諸外国から強硬に抗議されたのは、王政復古を目指す維新政府が幕府の民衆統治を引き継いでいた「キリシタン禁制」で、その象徴が「浦上キリシタン」だった。伊藤博文がフランスから出した手紙により明治6年、政府はキリシタンの禁制の根拠になっていた高札を撤去するが、キリスト教に対する危惧は抱えたままだった。

浄土真宗の活躍
 神道国教化を目指し、神仏分離令を出した明治政府が恐れていたのは文明開化と共に流入してくるキリスト教の影響だった。津和野藩などに移されたキリシタンは、熱心な者たちほど国学者や神道家の説諭にも動じず、懐柔策や拷問でも信仰を捨てようとしなかった。彼らは反権力的ではなく、年貢も進んで納める模範的な農民であったが、こと信教の問題になると強固になるのが、じかに接した当事者たちを驚かせたのである。
 キリシタン禁令の高札が掲げられていた時代、いわゆる潜伏キリシタンは建前として踏み絵を行い、葬儀は寺に頼んでいた。ところが、高札が撤去されると、彼らは仏式の葬儀を拒否し、神宮の護符を取り払い、仏像や位牌を捨て、日曜礼拝を行うようになった。
 これらに対して政治的に打つ手はないと考えた政府は、天皇への素朴な敬愛の念に基づく神道国教化をより一層進めるとともに、宗教は宗教に任せるしかないと、国民の間に広く浸透していた仏教にキリスト教対策を委ねるようになる。
 その主役を担ったのが、阿弥陀仏一仏信仰で一神教のキリスト教に類似し、一向一揆の歴史をもち、宗祖親鸞以来、僧の妻帯を認め、在家主義に重点を置く浄土真宗であった。倒幕側に資金援助し、維新政府と関係が深かった西本願寺は、西欧キリスト教の実態を調査するため島地黙雷ら優秀な若手僧侶を派遣し、彼らは明治5年にヨーロッパで岩倉使節団と合流している。同じ長州出身で木戸孝允と昵懇だった島地は、視察した西欧諸国の政治と宗教の関係を踏まえ、政府要人らと宗教論議を交わしたという。
 明治の日本仏教にとって文明開化はキリスト教に加えて西洋哲学との出会いであり、近代哲学で仏教を読み直し、近代国家にふさわしい仏教へと変身させる歴史が始まった。内心の自由、生き方としての仏教の探究で、西洋で発達した個人主義の日本的受容でもあった。特に真宗では、明治の国づくりに歩調を合わせながら、キリスト教の浸透を防ぐことを目指していた。
 もっとも、日本をキリスト教化することで近代国家を築けるとする人たちも多く、その代表がサミュエル・スマイルズの『セルフ・ヘルプ』を翻訳した『西国立志編』がベストセラーになった中村正直で、新渡戸稲造や新島襄、内村鑑三ら多くのキリスト者を輩出した。ところが、政府の危惧とは関係なく、年数を経るにつれキリスト教は影響力を失い、いわゆる日本教に吸収されてしまう。
 大正6年に出した『出家とその弟子』がベストセラーになり、当時の若者を中心に親鸞ブームを巻き起こした倉田百三は、キリスト教や西田天香の一燈園に引かれながら、次第にナショナリズムに傾倒していった。民藝運動で知られる柳宗悦は、神学に引かれながら晩年は真宗に引かれ、妙好人に理想的な生き方を見いだしていく。
 一方、明治の宗教政策をリードした真宗は次第に日本主義化し、昭和の軍国主義の時代を迎えると、従軍する門徒らへの教えもあって、親鸞主義は国家神道に習合するようになっていく。戦後、浄土真宗が反政府的なスタンスを取るようになったのは、そうした戦前の歴史の反省からである。

近代を超えて
 宗教学者の末木文美士氏は中世仏教を専門にしながら近世仏教、さらには近代仏教の研究に重点を移している。それは、仏教界の動向を抜きに日本の近代史や近代思想史を論じることはできないからである。研究者だけでなく、多くの日本人が漠然と考えている仏教も、古来の教えではなく、明治になって見直された近代仏教であることは再認識されないといけない。
 人の心を育て、社会を下支えするという宗教の役割からして、戦前の日本主義化は一概に否定すべきではなく、貴重な研究対象とし、その成果を次の時代に生かすことが望まれよう。その意味で近代を乗り越える営みが宗教界には求められている。